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(5)TVゲーム全盛の必然性

 私が子ども時代を過ごしたのは瀬戸内海に面した小都市で、太平洋戦争中には、戦艦大和が建造された海軍工廠があったところだ。そのせいか昭和30年代になっても、町のはずれには、防空壕の跡がまだいくつか残っていた。子どもが入って遊んでいて壕が崩れ、大けがをしたとか、死んだとかという話も聞いた。親や先生には「絶対に入っていけない」と言われていた。防空壕のほとんどは、コンクリートでしっかりと入り口が塞いである。しかし中には無防備の状態で放置されていたものあって、ぽっかりと口を開け、未知の暗闇の世界に誘うその存在は、子どもたちにとっては逃れがたい魅力をもっていた。
 ある時、近所の年上の悪ガキに誘われ、禁を犯したことがある。少し山に分け入った崖に口を開けていたその防空壕は、小学生がかがんで入るのがやっとの小さなものだった。言い出しっぺの悪ガキは、家からこっそり持ち出したペンライトを片手に、先頭で中に入っていく。誘われた年下の者たちはそれに続いたが、気弱な私は、入ろうか逃げようか迷ったあげく、最後尾からついていった。悪ガキの持つ明かりは、後ろまでは届かない。カビ臭く湿った暗闇の中を、のろのろと進みながら私は、穴が崩れるのではという心配より、戦時中、壕の中で生き埋めになった亡霊が襲ってくるのではないかという恐怖でいっぱいになった。その時のドキドキは、今でも忘れられない。

 あの時代の子どもたちは、親の目の届かないところで“冒険”を楽しんでいた。秘密基地作りが全盛で、空き地や工事現場の片隅などは、かっこうの遊び場だった。大人の目の届かない場所、見つかれば怒られるかもしれないが、大丈夫かもしれないという「冒険のためのグレーゾーン」は、近所にまだたくさんあった。
 今の社会から見れば、森も空き地も工事現場も、町のいたる所、「ずさんな管理」だらけだった。そのぶん事故もあっただろう。しかし当時は、施設管理者の責任を問うよりも、親のしつけが責められるよりも、まず先にこっぴどく叱られたのは当の子どもだった。ところが、「子どもの安全」が最優先される現代では、事情はがらりと変わっている。
 ある町内会で、団地に隣接する小さな森を、地主に交渉して遊び場として開放してもらおうという計画が持ち上がった。「それは、いいことだ」と、町内総会では満場一致で支持された。しかしその後、「万一事故が起きたら、いったい誰が責任をとるのか」「事故防止のため、監視員を雇うべきだ。その予算はどこから出すのか」といった声が上がり、計画はあっという間に立ち消えになってしまったという。
 子どもたちを守るセキュリティシステムが整備された社会では、“冒険”は姿を消さざるを得ないのだ。「安全な冒険」など存在しない。なぜなら、「冒険」とは、「危険を冒す」という意味だから。

 しかし、この矛盾を見事に解決したのが、TVゲームなのではないだろうか。ゲームの中で主人公になりきれば、ドキドキする冒険が可能だ。またゲームの世界には、複雑な機械操作や友だちとのデータ交換など、大人たちがなかなか入っていけない領域が広がっているが、これもまた、子どもにとっての魅力の一つだろう。
 子どもが持て余している体力と感情を、スポーツの中で発散させようという試みがある。幼児のうちから、りっぱなユニフォームを与えられ、大人の指導の元に汗を流す子どもたち。しかし、ちょっとした休憩時間には、グラウンドの片隅で、TVゲームに没頭する子どもがいる。そこには、“大人公認の場”では得られない何かがあるのだ。
 「安全でいてほしい」という大人の思いと、「危険な冒険をしたい」という子どもの思いの妥協の産物が、TVゲームなのだ。それゆえ、ブームは当分衰えることはないだろう。

 ところが、TVゲームによる「疑似体験としての“冒険”」と、昔の子どもの「実体験による“冒険”」とでは、感情体験の質が微妙に違っている。後者における感情体験は、体全体からわき出るような感情発散であり、その意味ではじゃれあい遊びに近い。しかし前者の場合は、非常に限定的な感情体験である。
 TVゲームにおいては、指先の細かい操作やデータ認識、攻略法などの情報処理が重要な要素を占める。冷静な判断・正確な処理や操作が必要とされるのは、ゲームの目的が「クリア」(目標の達成)だからである。TVゲームのおもしろさは、挑戦の過程での感情体験もさることながら、目的達成による快感に負うところが大きい。
 昔の子どもの「実体験による“冒険”」では、目的の達成は、いつの間にかどうでもよくなってしまうことが多かった。秘密基地が未完成のまま終わろうが、最後に壊れてしまおうが、活動の過程での感情体験の方がおもしろかったのだ。
 こういったTVゲームの特性は、現代の子どもの感情抑圧傾向に拍車をかけてしまう傾向をはらんでいる。

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■第2章 感情抑圧から、さまざまな問題が生まれる」カテゴリの記事

コメント

この世の「魅力あること」は、すべて、「良い体験」になる可能性もあるし、「逃げ込み」「単なるまぎらわし」になることもあるでしょう。
たとえ後者であったとしても、「人間関係が苦手で、勉強や研究の世界に逃げ込み、そこで偉大な功績を残した」ということもあるのでしょうね。また、「まぎらわすことによって、なんとか日常を乗り切っている」という人もいることでしょう。
「良い・悪い」ではなく、「そのことに気づいている」ということが大切なのでしょうね。

投稿: ぴっかり | 2007年11月 5日 (月) 11時35分

感情抑圧、という言葉・・・まさに、息子も自分自身そうです。じゃ私はゲーム世代かといえば違います。やってみようとしたけれど、自分が下手すぎてあまりの自分のふがいなさにできなかっただけです。で、子供時代は習い事のはしりをやってました。もちろん自由な空間や時間もあり、多少は大人の知らない冒険まがいのことも今の子よりは経験しています。でも、習い事で大人に認められることを旨として生きていたように思います。大人になって苦労してネットできるようになり、現実生活の癒しやら逃げとして使ってきたように思います。それから本など文字を読んだり書いたりすることで現実生活では得られない、いろんなことをしてしのいできました。その分現実生活と向かい合わないでいられる分、そこから逃避して問題を悪化させた気もしているのです。現在息子は不登校でおきている時間のほとんどをネットゲームに費やしています。笑い声もよく聞こえます。だから、逆に命の心配をしないで暮らしていられます。でも、夜回り先生の言うようにそれで問題を回避できるので長期化しているともいえるかなと思います。そこの矛盾に自分で納得いかない思いでいます。本を読むことは良いことでゲームやパソコン携帯は悪だというような世の中の風潮がありますが、そこの違いが私にはあまり実感できません。私は本を読んで癒し逃げていましたし、それが悪い面もあり、良い面もあり・・・だと思うので。ただ、矛盾する思いで、どうだということはありません。でも・・・です。まとまりがありませんが、思いだけ書かせてもらいました。

投稿: しっぽ | 2007年10月31日 (水) 22時05分

ぶくぼこさんがおっしゃる「はまり込んで、なかなか止められない」という状況は、ゆつこさんがおっしゃるように、「ゲームに限らず全てに通じること」ですね。映画、テレビに限らず、本だって、恋愛だって、仕事だって…。
世の中のすべてのことが、感情抑圧や中毒の材料となる可能性があり、一方で、人生の楽しみや生き甲斐ともなりうる。要は、「程度問題」ということでしょうか。じゃあ、どの程度?ということになるのでしょうが。そのへんのことを、次の項で明らかにできればと思います。

投稿: ぴっかり | 2007年10月24日 (水) 03時12分

ゲームについてさまざまな意見がある中で、考え方次第で良くも悪くもとらえられるのだな…できることなら良い面をたくさん考えられたらいいなと思いました。ゲームに限らず全てに通じることだとも感じました。

投稿: ゆつこ | 2007年10月23日 (火) 19時09分

・・・すみません、ゲームの擁護です。
 私はいわゆるゲーム世代の子供でした。友達とソフトを交換したり、みんなで協力してクリアすることを楽しみにしていました。
 変ですが、ゲームから得るものもありますよ。協力して達成すること、譲ることや譲られること、根気よく挑戦すること、新しいソフトをどうやりくりしたら買えるか考える等。私の両親は共働きでした。ゲームに寂しさを埋めてもらったところがあると思っています。
 まだ先の話ですが、自分の子供に与えることになったら、私や主人に遊んでどうだったかと話をして欲しいです。家族の話題のひとつになって欲しいです。
 思い出は残ります。ゲームを遊んだ話を同世代の子としたり、ゲームの中の悪い登場人物に対して正義感を燃やしたり、悲しい出来事に泣いたり、ハラハラしたり喜んだり・・・。映画やテレビを見るのと変わらないと思います。楽しい思い出のひとつになれると思います。
 夢中の子からゲームを隠したり、ゲームを責めたりするのは親を不信になる(私の場合はそうでした)のでは? はまり込んで、なかなか止めれないと思いますが(私もそう)その誘惑の中で自分を律することも学んでくれれば嬉しいですよね。理想でしょうか

投稿: ぶくぼこ | 2007年10月20日 (土) 12時58分

たしかに、「責任」ということが、現代人の思考・発想に、いつも重くのしかかっていて、いろいろな影響が出ている感じですね。ただこれは、第2章の方で追求していくつもりなのですが、なかなか根が深い問題だと思っています。
というのも、「古き良き時代」には、一方で、「権威主義」や、「弱者が泣き寝入りせざるを得ない、ずさんなマアマア主義」がはびこっていたと思うのです。そういった、権威を振りかざす人や、既得権益にあぐらをかく人たちに対して、「責任体系を明確にする」という形で、私たちは風通しの良い社会を模索してきたのではないでしょうか。つまり、「人権の擁護」「弱者の救済」ということと、「責任の追及」がセットになっているという面があり、そこが難しいところではないかな…と思うのです。
じゃあ、どうすれば?ということについては、第2章でじっくりと考えていきたいと思います。「雨のにおい。たちこめるどくだみ草の香り、花を摘む時の、きゅっという音のような手ごたえ。大人になっても思い出せる」…ということが、二律背反の状況から抜け出すための、大きな手がかりになりそうですね。ヒントをくださって、ありがとうございます。
また、ぜひ、ご意見を聞かせてくださいね。(^o^)/

投稿: ぴっかり | 2007年10月18日 (木) 12時45分

私が一番悲しいのは「冒険」を知っているはずの世代の私たちがこどもたちから「冒険」を遠ざけてしまっていること。「安全」にこだわっているというよりも「責任」にこだわっている気がします。
考えや理想があるけれど、「責任とれるの?」と言われるとしり込みしてしまいます。
子供をのびのびと育てたいと思ったら親もそれなりの覚悟がいる時代になってしまったのでしょうか?
古きよき昭和を描いた映画が流行るのはなんか皮肉な感じがします。
ゲームじゃ味わえない五感の経験、子どもたちにさせてあげたいなあ。
雨のにおい。たちこめるどくだみ草の香り、
花を摘む時の「きゅっ」という音のような手ごたえ。
大人になっても思い出せる。
ゲームの興奮は大人になって懐かしく思い出せるのかなあ?

投稿: | 2007年10月18日 (木) 00時49分

●rinさんへ
私自身、パソコンゲームやTVゲームにはまってしまうタイプなのです。世の中のあらゆる事って、「良い側面」と「悪い側面」があるのではないでしょうか。要は、その「功」と「罪」がわかっていればいいのではないかしら、と思いますが。

●たくさんへ
「安全」や「効率」は、一方で、私たちの暮らしを豊かにしてきてくれた面もありますね。自然や「たまり場」を失ってきたのは、大人も同じだと思います。そう考えると、ある意味、大人の「冒険の場」も減ってきているのかもしれませんね。

●だんごちゃんへ
昔の子どもだって、「めんこ」にはまったりしていたから、麻薬のように夢中になってしまうという点では、対象は違えど、同じ状況なのかもしれませんね。
でも、「麻薬」という点では、大人の「仕事中毒」のように、一見「麻薬」とは思えない「麻薬」の方が、要注意なのではないだろうかと思っています。そのあたりは、次の項で明らかにしていきたいと思っています。

投稿: ぴっかり | 2007年10月17日 (水) 04時14分

確かにゲームが私たちの時代の冒険ごっこなのかもしれませんね?雨になれば外で遊ぶ場所もなく、誰かの家出おとなしく遊ぶと言えばゲームくらいしかないですよね?最近も平日は働いているのでお友達を呼べませんが、休みの日に天気が悪いからと友達を招き入れていました。でも主人もいるし玉の休みなので親も静かにしてもらいため、普段はうるさくゲーム禁止令を出しているのに、このときは黙認と言う感じで遊ばせてしまっている自分に、矛盾を感じてしまいました。
考えたら、子供が思い切り遊べる場所がないんですよね?大人の都合でどんどん窮屈な世界になっているのだと、反省させられました。
だからと言って、一人の力ではどうすることも出来なくて、悶々としています。
宝くじでも当たったら隣の土地を買い取り、児童館を建ててあげたいなんて考えましたが、でも「安全面は?」「せこいけど光熱費は?」「維持費は?」なんて考えると、たとえ当たって上物ができたとしても、
維持なんて簡単に出来ないのです。しかも子供は大きくなれば、利用もしないし・・・。
子供をのびのび育てたくても、行政が絡んでくれないと何も出来ないのだと悲しくなります。
でも、絶対このままでいいわけないですよね?
我が家は10歳まで待たせて、この春にやっとゲームを与えましたが、このゲームのために今までなかった争いが勃発しております。約束が守れない・・・この一言に尽きます。何かの雑誌に「ゲームは麻薬のようなもの」とありましたが、本当にそうだと思います。
この味を知ってしまえば、たとえ取り上げてもどこかに隠れてするようになるでしょう。そうなると麻薬以上の存在かもしれません・・・・。恐ろしいです。

投稿: だんごちゃん | 2007年10月16日 (火) 13時20分

まさに私がずっと感じていた事だったので驚きました。スポーツもテレビゲームも本当の意味でこどもを開放してくれない。なぜなら終わった後、なんとなく満足できず、妙に疲れていたりイライラした様子を見せるからです。

このお話とはずれるかもしれませんが、最近感じた事です。近所で比較的自由な遊び場があったのですが、間もなくマンションが建つことになりました。自治会の方たちは草むしりがなくなるので喜んでいました。そんな大人の都合がこどもを息苦しくさせている。木の実をひろい穴を掘り花を摘み虫を捕まえていた、群れ集まる居場所をなくしたら、いったいどこへいったらよいのでしょうか。こどもたちの気持ちを考えると切なくてつらいです。外でこどもをみかけなくなったとよく聞きますが、外にはもうこどもの冒険の場がないのかもしれません。

投稿: たく | 2007年10月16日 (火) 10時14分

わが子はまだ5歳で、テレビゲームは欲しいとも言いませんが、お兄ちゃんやお姉ちゃんがいるお友達の中には、当然のようにゲームをしている子もいます。
最近では、そういう子の家に遊びに行ってゲームをしてきて、楽しそうにその様子を話したりします。
今の時代、避けて通れないだろうとは思うものの、なるべく先伸ばしにしたいというのが本心です。
目にも、身体や脳の発達にも、少なからず悪影響があるだろうと思っていたからですが、“心にも”ということになると、さらに考えてしまいます。。。

テレビゲームが、昔の“小さな冒険”の代わりになっているというお話は、目から鱗でした。
私自身田舎育ちなので、基地を作ったり、内緒で野良犬を飼ったり、火を使って遊んでいて近所のおばさんに怒られたり、そんな経験をいっぱいしてきました。
親が立ち入ってはいけない、子供だけの領域と言うものが、必要なんですね。
本当に様々なことが難しい世の中です。。。

投稿: rin | 2007年10月16日 (火) 10時10分

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