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2007年12月9日 - 2007年12月15日

(2)感情体験が果たす役割

 「聞き分けが悪く、叱ってもニヤニヤするだけで反省しない」という2歳の男の子。私が母親と話している最中に、母親のカバンを勝手に開け、中に入っていた携帯電話や手帳などを床にばらまき始めた。母親に注意されても、あいまいな笑顔のままいたずらを続けている。さらに強く叱ると、カバンを投げ飛ばして大暴れをはじめた。
 親に叱られた時、ふつう子どもは、ムッとしたり、べそをかいたり、ばつの悪そうな顔をしたりするものだ。しかし、そういったマイナス感情の表現を回避しようとする子どもは、とりあえず“笑顔の仮面”をかぶって、気持ちの動揺を悟られまいとするのだ。
 感情抑圧傾向をもつ子どもは、こわばった感じの無表情だったり、いつも不機嫌な顔だったりと表情の変化に乏しい場合もあるが、それだけだとは限らない。この例のように、「ふだんはニコニコしているが多いが、ため込んだストレスが臨界点に達すると、ひどいかんしゃくを起こす」というパターン、つまり「笑うか、怒るか」の両極端を往復するタイプの子どもも意外に多いのだ。

 少し抑圧がゆるむと、「泣く」という表現が加わる(抑圧傾向が強い子どもの場合、ほとんどは“怒り泣き”で、それは親に向けての「表現行為」というより、単なる「怒りの暴発」だ)。ふぇ~んと甘えるように泣いたり、しくしくと悲しそうに泣いたり、あるいは怖そうに泣いたりと、多様な感情表現を伴った泣きに変化してくるのだ。
 さらに自己表現が進むと、笑いについても、嬉しそうに笑う・恥ずかしそうに笑う・照れくさそうに笑うといった彩りが出てくる。「期待と不安の入りまじった表情」といったように、複数の感情が葛藤する表情も見られるようになる。甘え上手な子どもが可愛らしく感じられるのは、このように表情が豊かで、心の内が手に取るようにわかりやすいからである。
 TVなどで発展途上国の子どもを見ると、どの子にも実に生き生きとした表情をしていて驚くことがあるだろう。それは感情抑圧傾向が少なく、ホンネの感情をむきだしに表現していることによる可愛らしさなのだ。日本でも昔は、似たような素朴な雰囲気をもつ“ガキ”がたくさんいたはずだ。それに比べ、今どきの日本の子どもの表情はスマートだが、どことなく大人びていて、「子どもらしくない」と感じられることが多い。これは程度の差はあれ、子どもたち全体に感情抑圧傾向が進んできていることの表れなのだ。

 小さな子どもは、3歳前後のいわゆる反抗期の時期に、自己主張の力が強くなる。むき出しの感情を他者にぶつけることにより、自己表現の技術を高めていくのだ。もっとも、要求がすべて通るわけではない。相手から反撃を食らったり、嫌がられたりするといった失敗経験を通して、自己抑制の必要性も同時に学んでいくのだ。
 自己表現と自己抑制のバランスの取り方がうまくなってくると、少しだけわがままをしてみて、相手の出方をうかがい、「まだ大丈夫」とか「これ以上やると、怒りそうだ」と判断し、自己主張の程度を調節していけるようになる。もちろん、いつも相手の気持ちに合わせているわけにはいかず、譲歩できない切実な要求が生じることもあるだろう。そういう場合も含めて、「相手の気持ちを感じ取りながら、自己主張のバランスを考えていく」という経験を積むなかで子どもは、人とのコミュニケーション技術を身につけていくのだ。
 それは、否定的な意味での「人の顔色をうかがう」態度とは違う。その場の空気を読んだり、相手とのほどよい距離の取り方を考えていったりすることは、人間関係の基本なのだ。
 ところが、感情抑圧傾向がある子どもは、自己表現をできるだけ出さないように頑張り続け、臨界点に達すると爆発してしまうということを繰り返す。つまり、ホンネの感情が飛び出すか否かは、「我慢ができるかどうか」によるのであって、「相手がどんな気持ちでいるのか」ということとは無関係なのだ。相手の気持ちを感じ取る必要がないとすると、当然、そういった面での力が身につきにくくなってしまう。
 その影響は、中高校生の友人関係に垣間見ることができるだろう。

 今どきの中高校生を見ていると、一見スマートな人間関係のようだが、自分のホンネをしまい込み、あたりさわりのない会話に終始しているように思えてしかたがない。「喜怒哀楽の表現を繰り出し、失敗を重ねながら仲間との関係を作っていく」というやり方は、今どきの子どもたちからすると、リスクが大きすぎると感じられるのだろう。
 ホンネを表現しようとない友だちの気持ちは、読み取りにくい。たとえホンネが垣間見られたとしても、気持ちを感じ取る力自体が弱い。このような状況で、友人関係を築いていくのはとても大変なことだ。それこそ、友だちの顔色をうかがいながら、疑心暗鬼のまま行動していくしかない。「ケンカはしても、心の底では通じ合っている」と確信できた、昔の子どもの仲間関係とは大きく違うのだ。人間関係に疲れ切ってしまう子どもが増えているのも、当然なのではないだろうか。

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(1)隠された感情抑圧の結末

 子どもの行動・性格面に関するさまざまな問題の根っこには、感情抑圧のメカニズムがある。このことは、すでに出版されている私の著書の中でたびたび触れてきたし、相談室を訪れる親たちにも説明してきた。子どもの心のからくりを知った親たちは、「不可解な行動の原因が、やっと理解できた」と胸をなでおろす。しかし一方で、「感情抑圧傾向をもったまま成長していくと、この先、どんな人間になってしまうのだろう」と不安を漏らす人も少なくない。
 しかしその点について、私の見方は楽観的だ。たしかに幼児や小学校低学年など、比較的早い段階で破綻をきたし、なんらかの問題が生じるのは、特に感情抑圧の傾向が強いタイプの子どもたちだ。しかし、そのぶん早めに対応し、マイナス感情の発散や自己表現を促していけば、予後は悪くない。「親が気づいてあげる」ということのもつ影響力はとても大きく、それだけで、子どもの心に大きな変化が起きることも珍しくないのだ。

 問題はむしろ、目立った問題がないまま大きくなっていった子どもたちである。周囲の大人が気づかないままマイナス感情をため込み続け、中学生や高校生になってやっと臨界点を迎えた場合、事態は深刻だ。日々、さまざまな事件の報道に接していると、背後に感情抑圧のメカニズムの存在を感じることがあまりにも多い。
 たとえば対人緊張が強い子どもは、親に対してさえリラックスして甘えることができにくい面がある。それが、甘え上手になってくると、人に対する緊張も少し緩んでくる。さらに変化が進むと、今度は、親に対してダダをこねる時期がくる。これはいわば自己主張の練習であり、その結果、友だちとも緊張しないでやりとりできるだけの「心の力」がついていくのだ。相談を受けたケースの多くが、同じような経過をたどる。
 このような変化が、中高校生になってから一気に起きた場合、「不登校の末、家で暴れ始める」ということになるのだろう。不登校やひきこもりは、「親のそばにいて、甘えたい」という欲求の表れだ。しかし、進学に向けて学校の授業がどんどん進んでいく状況では、ゆったりと甘えさせるという選択肢は受け入れがたい。家庭内暴力は、自己主張のためのダダこねと本質は同じだ。しかし、小さい子どものダダこねやかんしゃくでさえ、親は対応に苦慮する。それが中高校生ともなると、簡単には受け止めきれなくなる。まして、長年にわたって溜め込んだ怒りが一気に爆発した場合は、想像を超えるすさまじさになるだろう。

 あるいはまた、「すぐに親を叩いたり、噛みついたりする」という子どもの相談を受けることがある。叱るとよけいに叩いてきたり、ひどいかんしゃくを起こして物や友だちに当たる。かといって、優しく諭すだけでは収まらず、対応に困って相談にみえるのだ。
 このような行動は、実は、ダダこね下手の子どもによく見られるものである。ダダこね上手の子どもの場合は、「ママのバカ!」と叫んで大声で泣いたり、地面にひっくり返って暴れたりと、ストレートに感情を表現することができる。しかし、叩く・噛みつくという行動は、屈折してしまった感情表現なのである。このような子どもへの対応は、叩いてくる手をつかんで制止してやることである。すると当然、子どもは手を振り切ろうとして暴れ出す。しかし、それでよいのだ。全身で暴れるという行為は、気持ちが発散しやすい上手なダダのこね方なのだから。乱暴をしようとする手や体を保持し続けると、子どもは全身で暴れるが、やがて気持ちを出し切り、すとんと落ち着く。このような対応を続けていると、子どもはみるみるダダこね上手になっていくのだ。
 受容的な態度で接しようとする母親が、「叩くまま・噛みつくままにさせておいたところ、子どもの行動がどんどんエスカレートしてきた」と相談に訪れることがある。どうして、エスカレートしていくのか? それは、叩く・噛みつくという行動が“抑圧のかかった感情表現”であるため、いくら叩かせてもらっても、子どもはちっともすっきりしないからである。それに子ども自身、「親を叩く」という行為がいけないことだと、本当はよく分かっており、つい叩いてしまう自分に内心いらだっているのだ。そんな子どもが、屈折したダダこね表現を止めてもらい、全身で暴れるというストレートな感情表現に導いてもらうと、「ああ、これこそ、自分がやりたかった行動だ」と実感し、かえって親に対する信頼感は増してくるのだ。

 しかし同じようなことが、中学生になってから起きるとしたら、どういうことになるだろうか。それが現実化した悲惨な事件が、1996年11月に、東京都文京区で起きた。ひとりの父親が、「金属バットで息子を殴り殺した」と警察に自首してきたのだ。当時中学3年生だった長男は断続的な不登校状態にあり、家族に対して殴る蹴るなどの暴力をふるい続けていた。身の危険を感じた母親と姉は家を出たが、父親だけは家に残り、長男の立ち直りを模索し続ける。カウンセラーの助言のもと、父親がとった方針は“完全受容”だった。いくら暴力を振るわれても抵抗することなく、なされるがままに受け止める。そんな生活に2年半にわたって耐え続けたあげく、ついに我慢の限界を超え犯行におよんだのだ。
 何とか子どもを立ち直らせようと、歯を食いしばって耐え続けたであろう父親の心境を思うと、とても責める気持ちにはなれない。しかし子どもは、父親に暴力を止めてほしかったのだと思う。甘んじて暴力を受け続ける父親に対していらだち、それ以上に、暴力を振るう自分自身に対していらだっていたはずだ。殴り続ける子どもの苦しみと、殴られ続ける父親の苦しみ。“感情抑圧のメカニズム”という視点さえあれば、すれ違っていた2つの苦しみが出会い、和解へと進むことができたのではあるまいか。そう考えると、残念でならない。

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(7)テレビ漬けは、子どもをダメにするか?

 私が生まれたのは昭和30年代前半で、物心がついた頃、わが家にはすでにテレビが鎮座していた。「鉄腕アトム」「鉄人28号」など当時の子ども番組の主題歌を、今でもかなり正確に思い出せることを思うと、私はかなりのテレビっ子だったのだろう。
 そんな私だから、子育てを始めた時、子どもをテレビ・ビデオ漬けにしないまでも、いっさい見せないでおこうとは思わなかった。そんなことをすれば、テレビ好きの私の方が、先にストレスで参ってしまう。それに、テレビ番組を通して知識が増えたり、人として大切なことを学んだりすることもあるだろう。そんなことを思いながら、あまり気にしないでほどほどに見せていたが、それで特に困った事態に陥った覚えはない。
 「テレビ・ビデオは子どもの成長に悪影響を与えるから、絶対に見せてはいけない」と主張する人がいる。だとすれば、多くの子どもたちが相当なダメージを受けているはずだが、あまりそのような話は耳にしない。「おかしな子どもたちが増えてきていることが、その証拠だ」と言われても、説得力に欠ける気がする。
 しかし、「悪い影響はまったくないと言えるのか?」と問われたら、「ない」とも答えられない。というのも、テレビから悪い影響を受けてしまった子どもたちに、何人か会ったことがあるからである。

 私のところには、言葉の遅れが心配で相談にみえるケースがある。その中には、「テレビを片づけたら、急に言葉が出てきた」という場合が時々あるのだ。それは、私が指示したのではなく、あくまでも親が考えて実行した結果なのだが。一方で、「テレビを片づけても、言葉の成長には、なんら変化は見られなかった」という報告を受けることも多い。この違いはどこにあるのだろうか。
 テレビから悪い影響を受けてしまう子どもには、ある共通点がある。子どもがテレビを見ている様子を観察すると、生き生きとした躍動感が感じられないのだ。ニコニコしながら見ているようでも、ビデオの同じ箇所を何度もリピートしてみたり、子どもが興味を持つとは思えないような内容の番組をボーッと眺めていたりする。つまりこれは、“まぎらわしの行動”なのだ。
 かまってほしいと親に対してダダをこねたり、甘えてきたりといった行動を通して、子どもは自己表現の技術を身につけていく。しかし、親への欲求表現を我慢してしまう子どもは、人と関わることや感情表現へのモチベーションを早くから失ってしまうのだ。したがって、テレビ・ビデオの視聴が、その子どもにとっての“まぎらわし”の手段だったとすれば、それらを見せないことで、言葉の発達を促すことができる。
 しかし、別のことがまぎわらしの手段になっている子どもの場合は、テレビを片づけてもなんら変化は見られないだろう。またテレビを片づけたとしても、指しゃぶりや物なめなど、新しい“まぎらわし行動”に移行してしまったなら、自己表現にはブレーキがかかったままなのだ。

 もっとも、テレビを消そうとすると、異常なまでに怒り狂って暴れ続ける子どもがいる。親の目からすると、「本当に好き」としか思えないのだが、これは、テレビが“まぎらわし”の手段になっている子どもの特徴だ。まぎらわしの手段が奪われたため、心の中にため込んでいたマイナス感情が一気に吹き出てきたのである。相談室では、「本当はママと遊んでほしいのに、ずっと我慢していたんだよね」と受け止めてあげてとアドバイスをしているが、そんなバトルを繰り返すうちに、子どもはホンネの要求を表現してくれるようになる。つまり、親にかまってもらおうと甘えてくることが増えてくるのだ。
 もともと感情抑制傾向をもたない子どもは、親が楽をしようと思ってテレビを見続けさせようとしても、そのうち飽きてしまい、かまってもらおうとダダをこねはじめるはずだ。テレビもビデオも、「パパやママに甘えることの快感」には勝てないのだ。

 テレビやビデオ自体が悪いわけではない。もともと感情抑圧傾向がある子どもにとっては、魅力的なものほど、あるいは刺激の強いものほど、“まぎらわし行動”の対象になりやすいのだ。
 同じことが、TVゲームについても言える。「内なる世界の構築」と「他者とのナマの感情の交流」とのバランス感覚に優れた子どもだったとしたら、ほどほどのところでTVゲームに飽きてしまい、それがまぎらわしの手段になることはないだろう。しかし、感情抑圧という時代の風を受けている子どもの場合、TVゲームにのめり込み、よりいっそう感情抑圧が強化されてしまう危険性が高いのではないだろうか。
 しかし、「TVゲームをさせない」という単純な発想は、「まぎらわしとしての癖を、表面的な行動だけを見て禁止する」というのと同じことだ。感情抑圧傾向自体がそのままだったとしたら、新しい、そしてより屈折した感情抑圧の手段へと移行してしまうだけなのだ。

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(6)「まぎらわし行動」による感情抑圧

 ある時、「子どもの爪噛みがひどい」と相談を受けた。「なくて七癖」という諺があるぐらいだから、癖ぐらい誰にでもあるものだ。特に子どもの癖は、一過性のものが多く、親があまり気にしない方が良い場合が多い。ところが相談のケースは、限度を超えていた。両手の指は、爪噛みによる深爪で血が滲んでいる。噛む爪がなくなると、今度は、足の爪をかじりはじめる。見るに見かねてやめさせようとすると、大暴れのかんしゃくを起こす。「こんな状態でも、気にしてはいけないのでしょうか」という相談だった。
 爪噛みがひどいのは、朝、幼稚園に出かける時や、園で友達の輪に入れず、一人でぽつんとしている時などだという。「緊張しやすい子なので、幼稚園がストレスなのだと思いますが」と母親。しかし不思議なのは、幼稚園から帰ってきて、家でビデオを見ている時などにも、爪噛みがひどいそうだ。これは、いったい、どういうことなのだろうか?

 爪噛み、指しゃぶり、髪を引き抜く、性器をいじる、体を掻きむしる、物なめ、歯ぎしり等々、限度を超えた癖をもつ子どもの多くには、感情抑圧傾向が見られる。特定の儀式的な行動パターンへのこだわり、特定の物やおっぱいなどへの固執、四六時中食べ続けるといったケースもある。これらの行動はすべて、特定の身体感覚に没入することによって、気持ちをごまかそうとする“まぎらわしの行動”なのだ。そのため、通常なら泣いたりダダをこねたりするような場面で、気になる癖が出ることが多い。
 こういったタイプの子どもは、ひとつの行動を禁じると、別の“まぎらわしの行動”に移行してしまうだけだ。爪噛みを厳しく叱ると、今度は、自分の髪を引き抜くようになるなど、もっと困った癖が出現してしまう。しかし、こういった子どもも、「幼稚園に行くのは嫌だ!」と登園時にダダをこねたり、友達の輪に入れない時は「先生と一緒がいい!」と甘えられるようになったりすると、自然に癖は消えていくことが多い。
 では、ビデオを見ている時の爪噛みは、どういうわけなのだろうか。この子どもの場合は、カウンセリングが進んでいくうちに、「本当は、ビデオを見たいわけではない」という気持ちを抱えていたことがわかってきた。本当は、幼稚園は大変だとダダをこねたり、母親に甘えたりしたかったのだが、それを無理に我慢していたのだ。

 ひどい癖なら注目されやすいが、ビデオ視聴のように、一見、合理的な行動が“まぎらわし”の手段になっている場合は、それとは気づきにくい。絶えず動き回ることによって、気持ちを押さえ込もうとしている子どもと、本物の「行動的な子」。一方的にしゃべり続けることによって、ホンネの気持ちを隠そうとしている子どもと、本来の個性として「話し好きな子」。その差異を示すサインはとても微妙だ。
 自由に行動しているにもかかわらず、ため息をつくなど、なんとなく不機嫌だったり、逆に、妙にハイな状態であることもある。生き生きとした子どもらしい躍動感が感じられない、同じパターンを繰り返すなど活動が非建設的、反対に、次から次へと刹那的に活動の対象を替えるような場合もある。何より顕著なサインは、体の過緊張状態がどんどん進行していくことだ。これさえも、慣れた目でないと見抜きにくいかもしれないが、極端なくすぐったがり屋は、その表れであることが多い。
 それが“まぎらわし”であったとしたら、気持ちの発散・表現が上手になるにつれ、落ち着きが出てきたり、人の話が聞けるようになったりという変化が出てくる。多くの親は、この段階になって初めて、「ああ、あれは本来の個性からの行動ではなく、まぎらわしにすぎなかったのだ」と実感するのだ。

 もっとも、“まぎらわし”をすべて悪だと決めつけることはできない。ビデオに逃げ込んでいるうちに、いつの間にかその世界に精通し、やがて映画監督として名をあげる人もいるだろう。しゃべり続けることで不安をまぎらわすうちに、話すことが得意になり、やがてお笑い芸人として脚光を浴びるようになった人もいるはずだ。実際、TVで活躍している芸人さんの中には、「本来は、とても緊張しやすい人なのではないだろうか」と思われる人も少なくない。
 「こだわりの強い子ども」という表現は、否定的な意味で使われることが多い。しかし、クリエイティブな分野で活躍している大人などに対して「こだわりの人」と表現する時は、賞賛の意味で使われる。つまり、こだわりは長所にも短所にもなりうるのだ。
 また大人の場合、ビデオを見たり、運動をしたり、人と楽しくおしゃべりしたりすることによって、ストレスを解消することがある。それらの行動も、ストレスの核心であるマイナス感情そのものに目を向けていない点からすれば、まぎらわしの行動の一種だろう。しかし大人の場合、子どもとは違い、泣いたりダダをこねたりといったストレートな気持ちの発散方法はなじまない。したがって、大人にとって“まぎらわし”行動は、ストレス・コントロールのために不可欠な手段と言える。

 ところが小さな子どもの場合は、“まぎらわし”行動が、知的な発達に深刻なダメージを与えることがある。それは、泣く・ダダをこねる・甘えるといった行動が、コミュニケーション技術の基礎を作る役割を果たすからだ。

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