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(5)自己責任の重圧

 5ヶ月の赤ちゃんを連れた母親が相談に訪れた。「一日中、ギャーギャーと泣かれるので、気が変になる。赤ん坊を窓から放り投げたくなってしまうこともあり、自分で自分が怖くなってきた」という悩みである。母親が話している横でも、体をのけぞらせ、悲鳴のような声で泣き続ける赤ちゃん。医師の診断も受けたが、特に異状は見つからなかったという。
 いい加減なタイプではなく、むしろ熱心に育児の取り組んでいこうという姿勢の母親だ。子宝に恵まれなかった時期が長く、妊娠がわかった時には、嬉しさのあまり飛び上がったという。そして、「この子のために、精一杯のことをやってあげよう」と思い、お腹の赤ちゃんに語りかけたり、胎教に良いというCDを聞かせたりと、“お腹の中からの育児”を心がけたそうだ。しかし、しばらくしてつわりが始り、思い描いていた計画が狂ってきた。人よりつわりがひどくて、とても胎教どころではなくなったのだ。
 「せめて出産は自然な形でと思っていたのですが、早期破水で陣痛促進剤を使うことになってしまいました。それに、絶対母乳で育ててあげようと思っていたことも、おっぱいの出が悪くて挫折してしまい…」と、顔を曇らせる母親。産後わずか6ヶ月にしてこのありさま、今からこんな調子ではと思うと、すっかり育児に自信をなくしてしまったと嘆く。

 生後3ヶ月ぐらいまでの赤ちゃんの中には、“泣きっぱなし”というタイプの子もいる。特に繊細な赤ちゃんは、出産に伴うストレスや、“外の世界”の刺激によるストレスを発散するため、たくさん泣く必要があるのだ。しかし母親が、「こんな時期もあるさ」という気持ちでゆったりと接していると、だんだん泣かなくなるものだ。ところが、母親が動揺しすぎると、その不安が赤ちゃんに伝わり、泣きっぱなしの状態がかえって長引いてしまうことがあるのだ。
 もっとも出産直後の母親は、精神的に不安定になっても無理はない。母体は、産後1年間ぐらいかけてゆっくりと元の状態に戻っていく。精神的な面でも、安定した状態に戻るには、同じぐらいの期間が必要なのだ。しかしこれも、「しかたがない」と受け流せず、不安定な自分自身に対して焦りが強い母親は、かえって不安が倍加してしまう傾向がある。こういったことも、悪循環の原因となりうるのだ。
 泣きっぱなしなのは、胎教をしてあげなかったせいか? 母乳をあげられないせいなのか?と苛立つ母親に、私はこう語りかけた。「そんなことは関係ないですよ。赤ちゃんが何より望んでいるのは、大好きなママが一緒にいてくれること。どんな理想的な育児法より、ママの存在そのものが、赤ちゃんは一番嬉しいのだから。過ぎたことに心を奪われず、体も心も、赤ちゃんと一緒にいてあげてね」。母親は赤ちゃんを抱きしめたまま、ポロポロと涙をこぼした。すると赤ちゃんはスーッと泣きやみ、すやすやと眠りはじめたのだ。まるで、「ああ、ママが楽になってよかった」と安心したかのようだった。   

 これは極端な例かもしれない。しかし、「選択を誤ったかもしれない」という不安が、現代の母親の心の奥底には、程度の差はあれ主調低音のように響いているのだ。いたずらが過ぎるとか、引っ込み思案だとか、たとえそれが個性の範囲にとどまり心配するに足りないほどのものであっても、「どこで育て方を間違えたのだろうか」という不安がのしかかる。その結果、重苦しい親子関係になり、事態はかえって悪化してしまうのだ。
 しかし、「つわりにもめげず、胎教をやり抜いた。母乳育児も頑張った。お受験戦争を勝ち抜き、有名校に入学させた」という母親からも、子育てに行き詰まったと相談を受けることがある。「私は頑張ってきたのに!」という気持ちが強いと、子どもの小さな欠点を許せなくなる傾向が出てくる。「親として、間違いない選択をしてきた」という自信があるがゆえに、子どもに対するハードルが高くなってしまうのだ。
 選択が正しかろうが、誤りだろうが、「まあ、しかたがない」という良い意味での“あきらめ”さえあれば、心は平静を取り戻し、子育てに行き詰まることは少ないのではないだろうか。

 選択肢が極端に少なく、地縁血縁に縛られたり、大自然の猛威に翻弄されることが多かった時代には、人々は嘆きつつも、「まあ、しかたがない」と気持ちを切り替え、現状を受け入れる技に長けていただろう。しかし選択肢が増え、個々人の努力や工夫によってより安全で快適な生活が手に入りやすくなった現代では、現実を受け入れることができず、イライラしてしまうことが多くなった。そしてその結果、かえって悪い影響が出てしまうことがあるのだ。
 このような時、禅宗では、「“諦める”は“明らめる”に通ず」と教えるのだそうだ。「こだわりを捨て、良い意味であきらめることができると、物の道理が明らかになる」という意味で、なるほどと納得できる気もする。がしかし、その考え方を実行に移すとなると、そう簡単にはいかないだろう。なぜなら現代の日本の社会は、「現状に甘んじないで、あきらめずに頑張る」という行動パターンで、ここまで発展してきたのだから。
 この行動パターンは、意識するしないにかかわらず、現代人の骨の髄までしみ込んでいる。そして、たとえそれが行き過ぎた場合でも、もはや歯止めがきかないところまできてしまっているのである。

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■第4章 いま、大人たちに何が起きているのか」カテゴリの記事

コメント

●あとむさんへ
古き良き時代には、笑っているお母さんだけではなく、「素直に」怒っているお母さん、泣いているお母さんもたくさんいたことでしょう。そういう意味では、たとえ、泣いても、怒っても、「まあ、いいか」と思えると、みんな、もっと気楽に毎日を過ごせるのかもしれませんね。

●mikimamさんへ
たしかに、「自分らしさ」という言葉が、居直りの方便として使われることもありそうですね。ただ、「低きに流れる」ということ自体、主体性を放棄しているわけで、「その人らしさ」の追求を断念してしまっていますね。
「低きに流れている」人で、本当の意味で、生き生きと毎日を送っている人なんて、いないのではないでしょうか。低きに流れまいとすると、たしかにストレス(葛藤)が多くなります。でも、ひとつ葛藤を乗り越えるたびに、今まで気づかなかった「小さなしあわせ」を発見することが多いのですよね。
「肩の力が抜けると、かえって、必要な踏ん張りがきくようになる」というタイプの人が、現代社会では増えているのだと思います。

あ、でも、「本当の“自由”は、“自分勝手”とは違う」という議論みたいに、けっこう、この種の議論って机上の空論になり、すれ違いがちになるかも。これぐらいにして、より詳細な視点を、次回からの文章で提案していきたいと思います。

これからも、ご意見聞かせてくださいね。

投稿: ぴっかり | 2008年1月18日 (金) 11時22分

今の時代、物も情報も溢れ返っていて、子育てには低きに流れやすい誘惑が多い時代ではないかと思います。そこで低きに流れて『親らしい』ことを捨てて、『自分らしい』ままで居る方が楽と、開き直っているのではないでしょうか?
子育てを通じて、自分ひとりで生きていたよりもたくさんの事を知り、忍耐強くなることが要求されてきた昔と違い、嫌なことは我慢しない大人がそのまま親となっているからではないかと思います。
低きに流れないように必死で頑張っているとストレスまみれになるから、頑張らなくても良いよというのはちょっと違うかなぁ。この線引きが難しいのが、今の問題点ではないでしょうか?

投稿: mikimam | 2008年1月15日 (火) 22時42分

2人の女の子の母親です。上の子が生まれ、育休明けには保育所生活が始まるのだからと、しつけといいつつ、そつなく子育てをしてきました。子どもが困らないように…といいながら自分のためだったようにも思います。 そして育休中に2人目を授かり、保育所に行かずに、日中は3人でうちで過ごしています。 同じように育てたくとも手が回らず、『まぁいっか』と下の子は育ってます。 特別なことをしなくとも元気に育ってます。ある意味自分に素直に生きてます。子育てって、これでいいんだなあと感じます。でも、上の子には、厳しくなったり、イライラをぶつけてしまったり…。『笑ってるお母さんがいい』という、子どもの理想の母親になれるように、頑張ってるところです。(怒った後には情けなくて泣けてきます。でも泣いて、スッキリして、次にすすみます)

投稿: あとむ | 2008年1月12日 (土) 22時14分

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