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★ダイジェスト版(前編)

■はじめに

 「今どきの若者は…」と嘆く声は、ギリシャ・ローマ時代からあったという。それにしてもショッキングな事件が頻発し、子どもの“育ち”の問題が連日のように報道される状況は看過できない。学校教育のあり方に問題があるのか、親の育て方のせいか。地域の教育力の低下、テレビやTVゲームの影響等々、各方面からさまざまな原因が指摘されている。しかし、子育て支援の現場からの発言が少ないことを、私はつねづね残念に思ってきた。親子の生の声に耳を傾け、その心のひだに寄り添い続けてこそ、初めて見えてくる真実があるのではないだろうか。
 私は長年、子育て相談(親子カウンセリング)にたずさわり、数百組の親子の立ち直りを援助してきた。そこで見られるのは、ごく普通の親子が、ちょっとしたボタンの掛け違いから、ずぶずぶと悪循環に陥っていく現実だ。そして“子育ての難しさ”の根っこには、この社会の思考様式の変化が深く関与していることに驚くのだ。
 相談室を訪れる子どもは、2歳から5歳ぐらいの幼児が多い。「そんな早いうちから問題が生じるとは、よほど特別な子どもだろう」と思われるかもしれない。しかし、そういった子どもたちは、現代の日本人全般に共通する“懸念すべき傾向”が早い時期に表面化しただけ、むしろ幸運とさえ言える。青少年の異常犯罪、引きこもりやニートの問題、大人のストレス性疾患の増加などの根っこにも、幼児の場合と同じような“苦しさのメカニズム”があるような気がしてならない。
 戦後の混乱から立ち直り、豊かな経済力を誇る国へと変貌を遂げていく過程で、私たちは何を得て、何を置き去りにしてきたのか、これからどこに向かって進むべきなのかが、子育てという小さな営みを通して、はっきりと見えてくるような気がする。


■責任者は誰だ?

 子どもの“育ち”に世間の関心が集まるたびに、教育改革が行われる。かつては詰め込み教育の弊害が叫ばれ“ゆとり教育”が打ち出されたが、最近では逆に、学力の低下が問題視される。国の方針が変わるたびに、現場の教師たちは右往左往してきた。
 1980年代、中学校での校内暴力がピークを迎えた頃、私は小学校教師をしていた。当時、中学校教師から、「小学校での指導に問題があるのでは?」と批判されたことがある。中学入学時から、やりにくい生徒が増えているのだという。1990年代に入り、今度は、小学校での学級崩壊やいじめの問題が深刻化してきた。そんな時期、小学校教師たちは、「幼稚園の指導のせいでは?」とささやきあった。入学式の途中であきてしまい、椅子の上に乗って後ろを眺めだす子どもは一人や二人ではない。1年生の教室でも、椅子に座っていられず、勝手に歩き回る子どもが大勢いる。入学してきた時から、あきらかに昔の1年生とは違うのだ。
 中学校は小学校を疑い、小学校は幼稚園・保育園を疑う。しかし、幼稚園のベテラン教師たちは口をそろえてこう言う。「入園の時から、今どきの子どもは難しく、私たちも苦労しているのです」。かくして責任者捜しの矢は、親へと突き刺さる。「非常識な親が増えてきましたからねえ」と嘆く幼稚園教師たち。それでは、子どもの変質の原因は、親の育て方の変化にあるのだろうか?
 もちろん、“とんでもない親”が増えているのは事実だろう。しかし、子育てに行きづまり相談室を訪れる母親たちは、ごく普通の常識的な親ばかりだ。「“当たり前の子育て”をしてきたはずなのに、なぜ?」という言葉は、自己弁護などではない。生育歴をたどってみると、親の育て方うんぬんの前に、子どものもつある種の「育てにくさ」が、親子関係の悪循環の引き金になっているケースが圧倒的に多いのだ。


■急にキレる子どもの心理

 昔はいじめっ子と言えば、「ドラえもん」に出てくるジャイアンのようなタイプの子だった。図太く単純で、行動がおおざっぱ。しかし最近、「友だちに手を出して困る」と相談を受けるケースでは、ジャイアンとは正反対のタイプの子どもたちが多い。もともとは臆病で神経質だった子が、ある時期を境に“いじめっ子”へと豹変しまうのである。
 入園以来、友だちへの乱暴が止まらない女児がいた。理由もなく突然手が出るので、目が離せない。「園に慣れてくれば、そのうち」と思っていたが、何ヵ月たっても収まる気配がなかった。母親が言い聞かせると、「うん、わかった。明日は頑張る」と言うのだが、次の日もまた手が出る。厳しく叱ると、チックや頻尿などが表れてきた。優しくしてもだめ、厳しくしてもだめという状態で、困り果てた母親は相談に訪れた。
 ジャイアン型のいじめっ子なら、成長と共に分別がつき、次第に落ち着いていくものだ。しかし非ジャイアン型の繊細な子は、強く叱るとストレスが溜まり、様々な神経症状が出てくる。かといって優しく諭しても、変化が見られないことが多い。それは子どもも、「やってはいけないこと」と頭ではよく分かっているからだ。ではいったい、どのように接していけばよいのだろうか。
 母親の話によれば、赤ん坊の頃から過敏で人見知りがはげしく、公園デビューもままならなかったそうだ。幼稚園へあがる時も、友だちになじんでいけるかと気を揉んだ。ところが入園後は、あっけなく母親から離れ、拍子抜けしたという。ふつう、新しい環境に不安を持つ子は、母親から離れるのを嫌がったり、先生にまとわりつき友だちに近づこうとしなかったりする。しかし、そんなふうに不安を訴えられる子は、だんだんに落ち着いていくのだ。ところが、平気な顔で不安を抱え込んでしまう子は、ちょっとしたきっかけで不安が恐怖に変わり、衝動的に手が出てしまう。
 この子の場合、母親と離れる際にダダをこねたり、先生にしがみついてベソをかいたりといった行動ができるようになってくると、友だちに手を出さずに済むようになった。そして数ヶ月後には、友だちと仲良く遊ぶ姿が見られるようになった。
 親が“よい子”を強要したわけではないのに、ホンネの気持ちをしまい込み、無理をする子どもたち。それはまるで、スマートな人間関係の裏でストレスにあえいでいる、現代の大人社会の縮図を見るようだ。


■「育てにくさ」のメカニズム

 「落ち着きがない」「根気が続かない」「友達の輪に入れない」等々、相談室には様々な悩みが持ち込まれる。その多くは“個性”の範囲を超え、育て方を工夫しても、どんどん悪循環になってしまうケースだ。そういった子どもたちは、泣き方に特徴がある。まず、めったに泣かない、いわゆる“感情抑圧傾向”をもつ子どもが多い。反対に、ちょっとしたことでギャーッと泣きわめき、大暴れになるタイプの子どももいるが、これは“感情抑圧の末の感情爆発”だ。泣き声が異様なのは、喉に力を入れて泣くことを止めようとしているからで、無理に我慢しようとするから、逆に長泣きになってしまう傾向がある。しかしこういった子どもたちも、豪快に泣いたり、甘えるように泣けるようになってくると、ほとんど例外なく問題が改善されていく。
 「泣くこと」に関する学術的な研究は、日本ではあまり注目されていないようだ。アメリカでは、「泣くことには、ストレスの発散作用がある」とするウィリアム・フレイ二世(William H. Frey II)の研究がある。迷子になった子どもは、親の顔を見たとたんにワッと泣き出すことがあるが、不安な状態が去ったのだから泣く必要はないはずだ。しかしそれは、不安な気持ちを親に訴えることにより、心に溜まったストレスを吐き出しているのだ。したがって、泣きに抑圧がかかっている子どもは、周囲の大人が気づかないうちにストレスをため込んでしまう。
 泣き下手・甘え下手の子どもの中には、すでに乳児の頃から、その傾向が見られるケースも少なくない。ふつう乳児は、抱いてやると身を任せてくる。この微妙な呼応動作によって親子の一体感が生まれ、わが子への愛情がはぐくまれる。しかし、感情抑圧傾向のある乳児は、抱いてやっても体に力が入ったままで、母親に身を任せようとしない。絶えずモゾモゾと落ち着かず、母親から目をそらすように体を反り返らせる。身体感覚を通して感じられる“心理的な壁”は、母親の感情に微妙な影を落とし、「なぜかわが子に対して愛情が湧いてこない」という事態を引き起こすのだ。
 感情抑圧傾向をもつ子どもの「育てにくさ」は、いつも一緒にいる母親でなくては実感として分かりにくく、周囲の人に理解してもらえないことが多い。母親自身も、「自分の愛情不足のせい」「育て方が悪いからだ」と、一人で思い悩んでいるケースが少なくない。


■「甘え下手」から派生するもの

 今、保育園・幼稚園では、落ち着きのない子どもへの対応に苦慮している。子どもは本来活動的で、何かに興味をもつと動きだしてしまうものだ。しかし最近の子どもは、無目的にふらふらと徘徊する傾向がある。こういう子はリラックスしているように見えて、実は緊張レベルがとても高く、動き回ることによって緊張した体の不快感をまぎらわせようとしているのだ。くすぐったがり屋なのも、体の緊張のせいだ。
 血がにじむほどのひどい爪噛み、指しゃぶり、髪を引き抜く、性器をいじる、体を掻きむしる、物なめ、歯ぎしり等々、限度を超えた癖も、体の緊張レベルが高い子どもに多い。こういった癖も、特定の身体感覚に没入することによって、不安や緊張をごまかそうとする“まぎらわしの行動”なのだ。
 多動傾向も、ひどい癖も、過緊張が原因なので、叱るとかえって緊張が高まり、逆効果になってしまうことが多い。そして過緊張の裏には感情抑圧がある。感情解放を促す方向での親子カウンセリングが進み、子どもが泣き上手・ダダこね上手、甘え上手になっていくと、体の緊張レベルが下がり、困った行動は確実に減っていくのだ。
 最近は、極端に寝つきが悪い、眠りが浅い、寝る前にいつもかんしゃくを起こすといった、睡眠に問題がある子どもも増えている。こういったケースの背景にも過緊張があり、感情解放ができるようになると、改善に向かうことが多いのだ。
 小学校教師をやっていた経歴から、学習指導に関する相談を受けることがある。根気や集中力に欠け、やればできるのに、がんばろうとしないというのだ。こういう子どもにも、過緊張や感情抑圧傾向が見られる。甘え下手で、「もし分からなければ、助けを求めればいい」という安心感がないため、意固地に一人で無理をして行きづまったり、最初から苦しくて意欲が出ないのだ。“自立”を促そうとすると“孤立”に陥り、“集中力”を鍛えようとすると“過緊張”になってしまう子どもたち。こんなタイプの子に必要なのは、むしろ“依存”や“弛緩”なのだ。
 相談室を訪れる子どもたちは感情抑圧傾向が強く、その結果、早い段階で行動に破綻をきたしている。しかしそのぶん早めに対応できるので、感情解放や自己表現を促していけば予後は悪くない。問題はむしろ、矛盾が表面化しないまま大きくなっていく子どもたちだろう。周囲の大人が気づかないうちにストレスをため込み続けた場合、事態は深刻だ。さまざまな事件の報道に接した時、背後に感情抑圧のメカニズムの存在を感じることがあまりにも多い。
 事件には至らないまでも、今どきの若者は、あたりさわりのない会話に終始していることが多い。「ホンネをぶつけ合い、失敗を重ねながら仲間との関係を作っていく」というやり方は、リスクが大きすぎると感じているのだろう。しかしそういった中で、人の顔色をうかがいながら人間関係を結んでいくのはとても疲れることだ。「ケンカはしても、心の底では通じ合っている」と確信できた昔とは違い、他人との関係に疲れ切ってしまう人が増えているのも当然なのだ。
 いや、ホンネをしまい込むというより、「自分のホンネの気持ちがどこにあるのか」が、自分でもよくわからなくなってしまっているふしがある。子ども時代のむき出しの感情表現は、自分自身と出会う体験でもあるのだが、生の感情を早々にしまい込んでしまう傾向があると、自己像がつかめないまま大きくなってしまうのだ。
 映画『ALWAYS・三丁目の夕日』に描かれているような古き良き時代、おおらかな感情表現が当たり前だった時代には、人々は活力にあふれていた。ところが感情抑圧傾向が社会全体に蔓延した現代は、生きづらさを感じる人が増えている。その影響をもろに受けているのが「親と子」なのだ。
 「後編」では、親の側が抱える事情について、詳しく見ていくことにしたい。

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