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2008年1月6日 - 2008年1月12日

(5)自己責任の重圧

 5ヶ月の赤ちゃんを連れた母親が相談に訪れた。「一日中、ギャーギャーと泣かれるので、気が変になる。赤ん坊を窓から放り投げたくなってしまうこともあり、自分で自分が怖くなってきた」という悩みである。母親が話している横でも、体をのけぞらせ、悲鳴のような声で泣き続ける赤ちゃん。医師の診断も受けたが、特に異状は見つからなかったという。
 いい加減なタイプではなく、むしろ熱心に育児の取り組んでいこうという姿勢の母親だ。子宝に恵まれなかった時期が長く、妊娠がわかった時には、嬉しさのあまり飛び上がったという。そして、「この子のために、精一杯のことをやってあげよう」と思い、お腹の赤ちゃんに語りかけたり、胎教に良いというCDを聞かせたりと、“お腹の中からの育児”を心がけたそうだ。しかし、しばらくしてつわりが始り、思い描いていた計画が狂ってきた。人よりつわりがひどくて、とても胎教どころではなくなったのだ。
 「せめて出産は自然な形でと思っていたのですが、早期破水で陣痛促進剤を使うことになってしまいました。それに、絶対母乳で育ててあげようと思っていたことも、おっぱいの出が悪くて挫折してしまい…」と、顔を曇らせる母親。産後わずか6ヶ月にしてこのありさま、今からこんな調子ではと思うと、すっかり育児に自信をなくしてしまったと嘆く。

 生後3ヶ月ぐらいまでの赤ちゃんの中には、“泣きっぱなし”というタイプの子もいる。特に繊細な赤ちゃんは、出産に伴うストレスや、“外の世界”の刺激によるストレスを発散するため、たくさん泣く必要があるのだ。しかし母親が、「こんな時期もあるさ」という気持ちでゆったりと接していると、だんだん泣かなくなるものだ。ところが、母親が動揺しすぎると、その不安が赤ちゃんに伝わり、泣きっぱなしの状態がかえって長引いてしまうことがあるのだ。
 もっとも出産直後の母親は、精神的に不安定になっても無理はない。母体は、産後1年間ぐらいかけてゆっくりと元の状態に戻っていく。精神的な面でも、安定した状態に戻るには、同じぐらいの期間が必要なのだ。しかしこれも、「しかたがない」と受け流せず、不安定な自分自身に対して焦りが強い母親は、かえって不安が倍加してしまう傾向がある。こういったことも、悪循環の原因となりうるのだ。
 泣きっぱなしなのは、胎教をしてあげなかったせいか? 母乳をあげられないせいなのか?と苛立つ母親に、私はこう語りかけた。「そんなことは関係ないですよ。赤ちゃんが何より望んでいるのは、大好きなママが一緒にいてくれること。どんな理想的な育児法より、ママの存在そのものが、赤ちゃんは一番嬉しいのだから。過ぎたことに心を奪われず、体も心も、赤ちゃんと一緒にいてあげてね」。母親は赤ちゃんを抱きしめたまま、ポロポロと涙をこぼした。すると赤ちゃんはスーッと泣きやみ、すやすやと眠りはじめたのだ。まるで、「ああ、ママが楽になってよかった」と安心したかのようだった。   

 これは極端な例かもしれない。しかし、「選択を誤ったかもしれない」という不安が、現代の母親の心の奥底には、程度の差はあれ主調低音のように響いているのだ。いたずらが過ぎるとか、引っ込み思案だとか、たとえそれが個性の範囲にとどまり心配するに足りないほどのものであっても、「どこで育て方を間違えたのだろうか」という不安がのしかかる。その結果、重苦しい親子関係になり、事態はかえって悪化してしまうのだ。
 しかし、「つわりにもめげず、胎教をやり抜いた。母乳育児も頑張った。お受験戦争を勝ち抜き、有名校に入学させた」という母親からも、子育てに行き詰まったと相談を受けることがある。「私は頑張ってきたのに!」という気持ちが強いと、子どもの小さな欠点を許せなくなる傾向が出てくる。「親として、間違いない選択をしてきた」という自信があるがゆえに、子どもに対するハードルが高くなってしまうのだ。
 選択が正しかろうが、誤りだろうが、「まあ、しかたがない」という良い意味での“あきらめ”さえあれば、心は平静を取り戻し、子育てに行き詰まることは少ないのではないだろうか。

 選択肢が極端に少なく、地縁血縁に縛られたり、大自然の猛威に翻弄されることが多かった時代には、人々は嘆きつつも、「まあ、しかたがない」と気持ちを切り替え、現状を受け入れる技に長けていただろう。しかし選択肢が増え、個々人の努力や工夫によってより安全で快適な生活が手に入りやすくなった現代では、現実を受け入れることができず、イライラしてしまうことが多くなった。そしてその結果、かえって悪い影響が出てしまうことがあるのだ。
 このような時、禅宗では、「“諦める”は“明らめる”に通ず」と教えるのだそうだ。「こだわりを捨て、良い意味であきらめることができると、物の道理が明らかになる」という意味で、なるほどと納得できる気もする。がしかし、その考え方を実行に移すとなると、そう簡単にはいかないだろう。なぜなら現代の日本の社会は、「現状に甘んじないで、あきらめずに頑張る」という行動パターンで、ここまで発展してきたのだから。
 この行動パターンは、意識するしないにかかわらず、現代人の骨の髄までしみ込んでいる。そして、たとえそれが行き過ぎた場合でも、もはや歯止めがきかないところまできてしまっているのである。

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(4)“自分自身”が見えない青少年たち

 「子どもにストレスを与えないようにしよう」と考え、腫れものにさわるような子育てをしていたら、たぶん親の方が先に、ストレスで参ってしまうに違いない。それよりも、ストレスが溜まったら上手に発散していけるような子どもに育てていく方が得策だ。そのためには、甘え上手・ダダこね上手・泣き上手になるよう、ほんの少しだけ配慮していけばよいのだ。
 また、ほどほどのストレスがあるからこそ、それを乗り越えようとして成長していく面がある。不安や葛藤と向きあうなかで、自分らしい“より良い生き方”が発見できることがあるのだ。

 マイナス感情をひたすら心の奥に押し込んで鍵をかけることを繰り返していると、自分が抱えている不安や葛藤の実体がわからなくなる。何が自分を不安にさせているのか、どうすればそれを乗り越えられるのかといった模索の余地はなくなり、そこにあるのは「快か不快かの感覚だけ」ということになってしまう。
 「いったい何が不満なのか、はっきり言ってごらん」という大人の質問に対し、「べ~つに~」としか答えない中学生は、不真面目なわけではない。自分でも何が不満なのか、はっきりわからないのだ。いや、そもそもそれが“不満”なのかどうかさえも定かではないのだろう。さらに問い続けると、「むかつく~」と言うかもしれないが、これさえも、正直な告白なのではないだろうか。その子が感じ取れるのは、マイナス感情の内容ではなく、胸のあたりのモヤモヤした感覚、漠然とした不快感だけなのだから。
 最近の中高校生の交友関係を、「ホンネをぶつけ合わない、一見スマートな人間関係」と前述したが、むしろ本人にさえ、自分のホンネが理解されていないのかもしれない。だとすれば、他人の気持ちなどわかるはずはないわけだ。

 “思春期の葛藤”の中に身を置くということはとても大変なことで、時として精神的な破綻もありうる。その危険な局面を乗り越えるためには、2つの道があるだろう。
 第一の道は、葛藤と向きあうということだ。そのためには、「汝の敵を知る」必要がある。自分の中にある曖昧模糊とした感情を明るみに引っ張り出し、はっきりとした形を与えるために、人は言葉を探し求める。乗り越えいくヒントを得ようとして、人の話を聞き、本の世界を探索するのだ。
 第二の道は、葛藤に身を置くというような面倒くさいことは避け、感情抑圧のノウハウを駆使して、それを心の奥深くに封印してしまうことだ。最近の若者は言葉を知らないとか、本を読まないとか言われているが、葛藤から逃げ出す道を選ぶとしたら、言葉も本も必要ないのである。「面倒くさい」が口癖の若者が増えているのも、このあたりのことと関係しているのかもしれない。

 手軽な道をえらんだ代償は、その人自身に降りかかってくる。人は葛藤と向き合う中で、“自分”と出会うのだから。「自分は、本当は何がしたいのか」「どう生きたいのか」という気づきは、おぼろげなものではありながらも、葛藤に向きあった者へのご褒美だ。人はその“漠然とした未来への予感”を胸に、社会に向かって船出していくのだ。
 ところが、自分自身と向きあうことなしに思春期を過ごすとすれば、自分というものがはっきりつかめないままになる。それではいつまでたっても船出はできないし、たとえできたとしても、荒波に翻弄されるだけの旅になってしまうだろう。
 私の学生時代には、「積極的に就職をしたがらない学生が増えている」として、“モラトリアム人間”という言葉が流行した。しかし当時の学生には、「自分は何者なのか」「いったい、何がしたいのか、何をすべきなのか」という葛藤のなかで、船出できないでいる学生が多かったのではないだろうか。
 それに比べて、最近のニート、フリーター、引きこもりをめぐる状況を見ていると、「自分が何者であるのか」という答えを、外の世界から得ようとして行き詰まっているような感じを受ける。しかし最終的な答えは、本人自らの“内なる戦い”の中でこそ見つかるものなのだ。こういった若者に対する援助のあり方も、“内なる戦い”を支えるという視点を欠かしてはならないのでないだろうか。

 もうひとつ、青少年が加害者となった凄惨な事件では、「警察官に同行を求められると、加害者の少年は素直に応じた」とか、「取り調べにも淡々と答えていた」などと報道されることが多い。しかしそのような時は、反抗的だったり取り乱したりということが、昔は一般的だったのではなかろうか。手際よく準備を整え、冷静に犯行に着手し、その後は何食わぬ顔でふだん通りの生活を続けたというケースも増えているようだ。そこには良心の呵責による逡巡や葛藤はなかったのだろうか?
 そのような点について、「冷酷無比な性格」と断罪され、「特殊な人間による、特別な事件」で済まされることも多い。しかし私には、それらの理解しがたい態度が、現代の若者がもつ感情抑圧傾向の極端な表れであるように思えてしかたがない。彼らは、葛藤や不安をしまい込むことに長けていただけなのではないだろうか。淡々と見えるその心の奥には、本人でさえ気づいてない不安・怒り・戸惑いがあり、そしてさらにその奥には、「友だちに近づけない寂しさ」のようなものがあったのではないだろうか。それは、ただ、「『友だちになってよ』と伝えたい」ということだけだったのかもしれない。
 自分の本当の気持ちに本人が気づいていたなら、もっと別の形でそれを表現する余地があったのではあるまいか。

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(3)ホンネって、なんだろう?

 日々、懸命に育児に取り組んでいるのに、子どもがちっとも甘えてきてくれない。母親は、「私は嫌われているようだ」とすっかり自信を失い、相談に訪れた。話を聞いている間、その2歳児は背を向けたまま一人で黙々と遊んでいた。初めて来た相談室で、母親が知らない人と話をしている。しかも内容は、自分のことに関する悩みだ。平気な顔をしているが、心の中は不安と緊張でいっぱいに違いない。
 “心のフタ”を緩め、ホンネの気持ちを表現してもらおうと思い、子どもに働きかけてみることにした。「遊ぼうよ」と声をかけると、一瞬表情がこわばったが、誘いを無視して遊び続けようとする。そこで、軽く腕を引いてさらに誘うと、突然ギャ~ッと叫び声を上げ、部屋の外へ出て行こうとした。

 初対面の大人にいきなり腕をつかまれたのだから、怖くなって当然だ。それにしても異様なほどの叫び声をあげるのは、その前から溜め込んでいた不安がきっかけを与えられて爆発したからだ。母親によれば、ちょっとした理由で叫び声をあげることはふだんからあるという。部屋の外へ飛び出そうとするのも、感情抑圧傾向のある子どもによく見られる行動だ。怖い思いをした時は、母親のところへ飛んでいき、助けを求めて泣くのがふつうだろう。しかし、平気なふりをして我慢を続けたい子どもは、マイナス感情が吹き出やすい母親のもとを避けようとするのだ。
 そこで、「一人で無理に我慢しなくていいよ。こういう時には、ママのところで泣いていいんだよ」と声をかけ、母親に抱き止めてもらうことにした。母親に抱かれると、子どもは落ち着くどころか、ますます狂ったように泣き叫び、その手から逃れようとする。そして、「ママのバカ!」「ママなんか、きらいだ!」と怒鳴りはじめた。これもよくある行動パターンである。平気な表情を取り戻すためには、心のフタが緩んでしまう母親の抱っこを受け入れるわけにはいかないのだ。
 それでも母親は放さず抱き続け、「ママは大好きだよ!」と声をかけ続けていると、やがて子どもの体がふっと柔らかくなり、甘えるような泣き声に変わった。そして最後は、母親の腕に身をまかせてゆったりと落ち着いた。「こんなにぴったりと抱っこさせてくれたのは初めてです」と声をつまらせる母親。こんなやりとりを数回重ねるうちに、子どもは徐々に甘え上手になっていった。
 母親に対する悪口は、ホンネの気持ちではなく、我慢を通したいがゆえの“拒否の怒り”なのだ。重石のように心を塞いでいた怒りを出しつくしたことで、やっと、隠れていた「本当は、ママに甘えたい」というホンネの気持ちが顔を出したのだ。

 後日、似たような体験を母親自身がしたそうだ。夫が帰宅すると、その日の子育ての大変さをグチるのが日課だ。夫はしんぼう強くつきあってくれるが、グチればグチるほど腹が立ってきて、最後はいつも夫をなじってしまう。なんとも後味が悪く、ちっともすっきりしないでいたそうだ。
 ところがある晩、いつものようにグチを言い続けているうちに、なんだか泣けてきてしまい、「寂しいよ!」という言葉が口をついて出てきた。そして自分が発した思わぬ言葉に驚き、「そうだ、私は寂しかったのだ」とやっと自分の本心に気づいたそうだ。そのあと、涙が止まらなくなったが、泣けば泣くほど胸が温かくなり、肩の力が抜けていくという不思議な感覚を味わったと話してくれた。

 頑張らなくては!と心のドアに鍵をかけ、怒りの重石を載せたままでいると、ホンネの気持ちが自分でもわからなくなってきてしまう。それは、子どもも大人も同じだ。感情表現には、「自分の気持ちを相手に伝える」という“感情伝達”の役割とともに、「感情を表現していこうとする過程で、自分が抱えている深い気持ちを、自分で認識できるようになる」という“自己認識”の働きがあるのだ。
 “感情伝達”の技術を身につけていくことは、もちろん必要である。しかし、“自己認識”の働きの方が、子どもの心の成長という面では、むしろ重要な意味をもつのではないだろうか。
 程度の差はあれ、現代の子どもたち全般に感情抑圧傾向が広がってきているとすると、「自分のホンネがはっきりわからない」という子どもが増えてきているはずだ。

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