« 2008年5月18日 - 2008年5月24日 | トップページ | 2008年7月13日 - 2008年7月19日 »

2008年6月8日 - 2008年6月14日

★ダイジェスト版(後編)

■「親らしさ」が失われたわけ

 かつてこの国には、男らしい男や、女らしい女がたくさんいた。母親は母親らしくあり、父親は父親らしくあった。「これが、親というもの」という一定の行動パターンが、社会一般の“常識”として機能していた時代には、世間の目という縛りが安全弁の役割を果たしていた。ところが、そんな「古き良き時代」には負の側面があった。それは、「~のくせに」という言葉に象徴される。
 たとえば今の世の中で、「年寄りは、年寄りらしくしていろ」「年寄りのくせに、若い者のやることに口出しするな」と言い放つ政治家がいたとしたら、大問題になるだろう。「女のくせに」しかり、「貧乏人のくせに」しかり。ところが、「~らしさ」が機能していた時代には、「~のくせに」という言葉も大手を振ってまかり通っていた。その後、この国は、「人を年齢・性別・財産・社会的地位などで判断しない」という方向に歩みを進め、弱者の泣き寝入りが徐々に改善されてきた。それにともない、人々を隔てる“線引きの論理”の側面をもつ「~らしさ」が失われてきたのは、当然の流れなのだ。
 成熟した時代のキーワードは、「自分らしく」である。古い因習や世間の決めたステレオタイプにとらわれず、「自分らしい子育て」を模索できる時代だ。「それ以上も、それ以下も許さない」という社会的なワクが緩めば、個々の親の人生観が、如実に子育てに反映されるようになる。「自分らしい、より良い子育て」を模索して悪戦苦闘する親がいる一方で、自分勝手な論理で子育てをする親が出てくる。良くも悪くも、個性的な子育てが可能な時代になったのだ。その結果として、「親のタイプの二極化」が生じた。


■自由であることの大変さ

 無責任な子育てをしている親は、自由と自分勝手をはき違えている。それでは、より良い子育てを模索して努力する親は、自由というものを建設的な方向で使いこなせているのだろうか。
 昔は、子どもが生まれた瞬間に、世間が用意した「親らしさ」を受け取り、自然に母親・父親になることができた。しかし今の親たちは、子育てをしながら、「自分らしい母親像・父親像」を自力で発見していかなければならない。日本のように都市化や核家族化が急速に進み、地域の伝統や地縁血縁の繋がりから一気に切り離された経緯があると、よけいに戸惑いは大きい。ある意味、「自由であること」が「不自由であること」よりも大変なのは、そこに選択による自己責任が伴うからである。
 伝統的な育児法や母親像の代わりに、現代においては、たくさんの育児情報がある。胎教の是非から始まって、「自然分娩か否か」「母乳かミルクか」、「布オムツか紙オムツか」「早期教育は必要か否か」等々、たくさんの選択肢から何を選ぶかということは、わが子のことを思うと責任重大である。また、一旦決断した後も、「選択を誤ったかもしれない」という不安が絶えずつきまとう。子どものいたずらが過ぎるとか、引っ込み思案だとか、たとえそれが個性として心配するほどのものではないにしても、「どこで育て方を間違えたのだろうか」という不安がのしかかり、その結果、重苦しい親子関係になってしまうのだ。
 多様な出産法や早期教育など、誰も知らなかった時代。紙オムツもミルクも育児情報も、どこを探してもなかった時代。自分の母親も、祖母も、曾祖母も、昔からこうしてきた。隣の奥さんも、向かいの奥さんも、近所の人たちはみんなこうしている。だから私も、同じようにやるだけ。そのような時代は、なんと気楽だったことだろう。
 「自由に伴う不安」や「親の選択責任という重圧感」は、程度の差はあれ、若い親たちの心の底にとぐろを巻いている。経済的な貧しさや不便さという“外敵”に代わり、心理的な“内敵”が、前向きであろうとする親たちを苦しめる。子育てに悩む親の現状を、一般の人が理解しづらいのは、それがおもに「内なる戦い」だからである。


■“問題点探しと改善”の功罪

 「それにしても、心配しすぎではないか?」と思われる方もいるだろう。しかし、「気楽に考えることができない」という若い親のもつ傾向も、この国が歩んできた歴史の反映なのではないだろうか。
 映画『ALWAYS・三丁目の夕日』の舞台となっている高度経済成長前夜の日本。そこには、貧しくとも気楽に暮す人々の姿があった。しかし、産業や社会のシステムが高度化・複雑化してくると、素朴な気楽さだけではすまない状況が出てくる。昭和30年代に多発した鉄道事故や、公害病の発生などでは、「気楽さ」のもつ「ずさんさ」の側面が原因だった。「素朴な現状肯定」ではなく、「問題点に目を光らせ、改善策を実行する」ことが、新しい時代に生きる人々の安全には不可欠なのだ。と同時に、“問題点探しと改善”の原理は、工業や経済の発展を支え、弱者救済のための人権回復運動を可能にした。
 現在では、“問題点探しと改善”の原理は、私たちの生活全般に自然な形で浸透している。部屋の収納からダイエット法まで、まず欠点を洗い出し、改善の方法を考えていく。こういった発想は、現代の日本人にとってはごく自然なもので、よりよく生きるためには、“問題点探しと改善”以外の道は思い浮かばないのである。
 ところが心の問題や子育ての分野では、“問題点探しと改善”の原理が逆効果になってしまうことが多い。「先の段取りのことで頭がいっぱいで、毎日、バタバタしている」という余裕のなさは、「先を見通した目標設定や、段取りの消化」で常に頭がいっぱいだからである。「なんとかなるさ」という言葉は、死語になりつつある。「子どもや自分自身の悪いところばかりが、目についてしまう」という切迫感は、「問題点探しが、前進のための第一歩」だからである。「しかたがない」という良い意味でのあきらめは、現代人の辞書にはないのだ。


■コントロール神話の落とし穴

 “問題点探しと改善”の原理の根底にあるのは、「人為的・理性的なコントロールによってのみ、進歩・成長が達成できる」という“コントロール神話”である。ここから、2つの弊害が生まれてくる。ひとつは、「まあ、いいか」と、自然なプロセスを信頼してゆだねる気にはなれず、絶えざる自己努力と緊張の毎日になってしまうこと。もうひとつは、感情の暴走を防ぐには「理性によるコントロール」しかないという思い込みだ。これが、おおらかな感情表現が失われ、感情抑圧傾向が蔓延していることの大きな要因の一つになっている。
 「イライラが押さえられなくて、子どもへの暴力が止められない」という母親の相談を、しばしば受けることがある。そういった母親は、もともと、怒りの感情を無理に抑えようとするタイプの人が多い。感情がもつ“自然なプロセス”に身をゆだね、「喜怒哀楽の人間ドラマの中で、人と人との関係は自然に進んでいくものだ」と考えることができないのだ。大人社会全体を覆う閉塞感や、鬱(うつ)の増加の背後にも、同じようなメカニズムが見え隠れしているようだ。
 選択肢が少なく、地縁血縁のしがらみや自然の猛威に翻弄されることが多かった時代には、人々は嘆きつつも、「しかたがない」と気持ちを切り替え、現状を受け入れる技に長けていただろう。しかし選択肢が増え、努力や工夫しだいでより安全で快適な生活が手に入りやすくなった現代では、あきらめることができず、イライラしてしまうことが多い。そしてその結果、かえって悪い影響が出てしまうのだ。
 このような時、禅宗では、「“あきらめる”は“明らめる”に通ず」と教えるのだそうだ。「こだわりを捨て、良い意味であきらめることができると、物の道理が明らかになる」という意味で、なるほどと納得できる気もする。しかし、その考え方を実行に移すことは簡単ではない。“問題点探しと改善”の原理は、意識するしないにかかわらず、現代人の骨の髄までしみ込んでいるからだ。
 たとえば、イライラが押さえられなくて悩んでいる母親に、「もっと気楽に考えてみては」とアドバイスをしたとしよう。するとその母親は、こう答えるだろう。「そうなんです。気楽に考えられないところが、私の悪いところなんです。わかりました。今後は、気楽に考えられるように頑張ってみます!」。かくして、「気楽に」というアドバイス自体が、“問題点探しと改善”の原理を強化し、新たな緊張を生む結果となる。程度の差はあれ、現代人の心の中には、このような悪循環が潜んでいるのではないだろうか。こういった堂々巡りから抜け出すためのヒントは、実は、他ならぬ“子育て”の中にあるのだ。


■現代人の「自己回復」は、子どもに学べ

 買い物からの帰り道、母親は帰宅後の段取りで頭がいっぱい。そんな時に限って「あ、テントウムシ!」と叫ぶ子どもに、以前だったら、「いい加減にして。時間がないんだから!」とイライラしていた母親だったが…。「でも、子どもにつきあってみて、『テントウムシを見るなんて、何年ぶりだろう』と気づきました。よく見ると、テントウムシってとっても美しいんですね。思わずうっとり見つめていたら、なんだか心がホッとしました」。
 先の段取りを忘れて、子どもに戻ったつもりでわが子とじゃれあってみて、「肩の力が、ふーっと抜けていくのに気づきました」という母親。下手くそな絵を示して、自慢したがるわが子に、「欠点を気にしないって、すごい力だなあ」と発見した母親。「流れに身をまかせ、先のことを気にしない」「今、目の前にある幸せに気づく」といった、“古き良き時代の人”が自然に身につけていた気楽さ、現状肯定的なエネルギーを、今も多くの子どもたちは失わずに受け継いでいる。“掃除哲学”による世直しを提唱する鍵山秀三郎さんは、「“結果主義”ではなく、“プロセス主義”の大切さ」を説かれているが、まさに子どもは“プロセス主義”のチャンピオンなのだ。
 ある母親は、こう話す。「子どもって、泣くだけ泣いたら、怒るだけ怒ったら、あとはケロッとしている。だからストレスがたまらないのですね。だったら、私も遠慮せずに泣けばいいんだと気づいてからは、ずいぶん楽になりました」。日本の社会全体に蔓延している感情抑圧による閉塞感は、子どもに学ぶことによって、払拭されていくのではないだろうか。
 資料を当たってみると、高度経済成長を境にして、「育児不安」「子育ての悩み」が急増していることがわかる。育児不安の原因の一つは、「古き良き時代を生きている子どもVS古き良き時代を忘れた大人」という構図にあるのだろう。昔の人は、子どもと同じような価値観を失っていなかったので、子どもとのつきあいにも、今ほど違和感がなかったのではないだろうか。
 「親のタイプの二極化」により、親としての自覚に乏しく、無責任さが目に余る親たちが登場した。こういったタイプの親は、「大人になりきれていない」のだろう。しかしその一方で、より良い子育てを目指しながら、息切れしてしまっている親たちが確実に増えている。そういったタイプの親たちは、「大人になりすぎている」傾向がある。したがって、大人であること、親であることの過度の責任感を時々下ろし、「子どもに戻る」「子どもと楽しむ」ことによって、ふっと悪循環が断ち切れる場合が多い。日本の社会全体は、「子どもたちを何とかする」ことに汲々とするだけではなく、「子どもたちに何とかしてもらう」という視点も、必要なのではないだろうか。
 正反対のタイプの親をひとまとめの対象とした子育て支援策は、現代の親の心には響かない。個々の親がもつ個性や願いに即した「草の根的なサポート」こそが、未来を開いていくのだろうと痛感する日々である。

| | コメント (6)

« 2008年5月18日 - 2008年5月24日 | トップページ | 2008年7月13日 - 2008年7月19日 »