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2008年7月13日 - 2008年7月19日

(6)依存症に陥る人々

 人が生き生きと生きていくためには、ほっと心がなごみ、安心感に満たしてくれるものとの繋がりが不可欠だ。古き良き時代には、それがムラ共同体であったり、大自然であったりしたのだろう。そういった“心のエネルギー源”を失った現代人は、自分らしさを求めつつ、孤独感の中であえいでいる。自立への指向が強い人ほど、心の奥には、依存への強いあこがれがあるのだ。
 “その他大勢”の集団に埋没していくことなしに、この依存への無意識の願望をかなえる手段のひとつが、アルコール依存症、薬物依存症、摂食障害、人間関係への依存(共依存)等の「依存症」なのではないだろうか。形は違うが、狂信的な宗教集団への入信も、個性的な指導者への依存という側面が大きいのだろう。一般大衆には理解しがたい少数派集団であるという点から、集団に属しながらも「自分らしさ」を失っていないという自負をもつことが可能なのだろう。
 「自分らしさを失わず、よりよく生きたい」という真摯な気持ちをもった人々ほど、こういった依存に陥りやすいと言えよう。そういった真剣な思いを支えてくれる“心のエネルギー源”は、依存の他にはないのだろうか? その大きなヒントを与えてくれる、ある摂食障害の自助グループがある。

 NABA(日本アノレキシア・ブリミア協会)は、拒食や過食など、摂食障害に苦しむ人たちの自助グループである(HP:http://www8.plala.or.jp/NABA/)。NBNA共同代表の鶴田桃江さんの体験談は興味深い。
 鶴田さんが過食にはまったのは、高校生の時が始まりだったという。表面的には人と仲良くする振りはしていたが、心の中ではいつも孤独感にさいなまれていた。大学入学後には、ダイエットがきっかけとなって拒食と過食の往復となり、入退院を繰り返すようになった。そんな鶴田さんの転機となったのは、27歳の時のNABAとの出会いだ。同じ悩みをもつ仲間同士で心を開き合ううちに、だんだん気持ちが楽になってきたという。
 NABAの集まりに通うようになってから、同じ摂食障害者とはいえ、様々な人たちがいることに気づくようになった。学生、主婦、会社員…。なかには、社会の一線級で活躍しているような人もいて、多様な人とふれあうことができた。そして、「自分は自分でいいのだ」という確信が生まれ、12年間続いた摂食障害が止まったという。

 このような自助グループは、他にも、幼児虐待のトラウマに苦しむ人たちのグループなど、似たようなスタイルで効果を上げている。同じ苦しさを抱える者どうしが集まり、自らの体験を話すのだ。話したくない者は、聞くだけの参加でもよい。ただ聞く時は、なにもコメントを挟まず、ただただ耳を傾けるのがルールだ。批判されない、丸ごとを受け止めてもらえるという安心感の中で、苦しい体験を語りはじめると、涙が止まらなくなる人もいる。しかし話し終えた後は、不思議な安堵感に包まれるのだという。
 マイナス感情を抱え込んだままでいると、他者への怒りとなって暴発したり、自分自身への怒りとなって無力感が生まれたりする。しかし、コントロールすることなく、ありのままに表現することができると、感情自体がもつ回復へのプロセスが進みはじめるのだ。そのためには、ありのままを受け止めてもらえるという安心感が必要だ。

 ただこういった試みは、自助グループ自体が依存の対象となってしまう危険性もある。「自助グループこそが、自分の生命線だ」「自助グループなしには、自分は生きていくことができない」という思い込みが強くなりすぎると、グループの存続だけが唯一の判断基準となり、主体的な生き方を捨て去ることにもなりかねない。
 その点について、鶴田さんの話は明快だ。鶴田さんは、多様な人が集い、お互いが違いを認め合う会の雰囲気の中で、「自分らしく生きていいのだ」と気づき、孤独の“孤”から、個性の“個”へと自分の気持ちが変化していったという。自分らしさを捨てて人と繋がるのではなく、人と繋がることで自分らしさに目覚めていったのだ。
 自分の価値を人に認めてもらうことによって、生きる力が湧いてきたというよりも、自分の価値を自分自身が認めることによって、誇りを持って生きていく自信が湧いてきたのだ。ここには、現代人が求めるべき「心のよりどころ」の在りかが、はっきりと示されているのではないだろうか。

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