カテゴリー「■第3章 「ふつうの子ども」が心配な理由」の記事

(4)“自分自身”が見えない青少年たち

 「子どもにストレスを与えないようにしよう」と考え、腫れものにさわるような子育てをしていたら、たぶん親の方が先に、ストレスで参ってしまうに違いない。それよりも、ストレスが溜まったら上手に発散していけるような子どもに育てていく方が得策だ。そのためには、甘え上手・ダダこね上手・泣き上手になるよう、ほんの少しだけ配慮していけばよいのだ。
 また、ほどほどのストレスがあるからこそ、それを乗り越えようとして成長していく面がある。不安や葛藤と向きあうなかで、自分らしい“より良い生き方”が発見できることがあるのだ。

 マイナス感情をひたすら心の奥に押し込んで鍵をかけることを繰り返していると、自分が抱えている不安や葛藤の実体がわからなくなる。何が自分を不安にさせているのか、どうすればそれを乗り越えられるのかといった模索の余地はなくなり、そこにあるのは「快か不快かの感覚だけ」ということになってしまう。
 「いったい何が不満なのか、はっきり言ってごらん」という大人の質問に対し、「べ~つに~」としか答えない中学生は、不真面目なわけではない。自分でも何が不満なのか、はっきりわからないのだ。いや、そもそもそれが“不満”なのかどうかさえも定かではないのだろう。さらに問い続けると、「むかつく~」と言うかもしれないが、これさえも、正直な告白なのではないだろうか。その子が感じ取れるのは、マイナス感情の内容ではなく、胸のあたりのモヤモヤした感覚、漠然とした不快感だけなのだから。
 最近の中高校生の交友関係を、「ホンネをぶつけ合わない、一見スマートな人間関係」と前述したが、むしろ本人にさえ、自分のホンネが理解されていないのかもしれない。だとすれば、他人の気持ちなどわかるはずはないわけだ。

 “思春期の葛藤”の中に身を置くということはとても大変なことで、時として精神的な破綻もありうる。その危険な局面を乗り越えるためには、2つの道があるだろう。
 第一の道は、葛藤と向きあうということだ。そのためには、「汝の敵を知る」必要がある。自分の中にある曖昧模糊とした感情を明るみに引っ張り出し、はっきりとした形を与えるために、人は言葉を探し求める。乗り越えいくヒントを得ようとして、人の話を聞き、本の世界を探索するのだ。
 第二の道は、葛藤に身を置くというような面倒くさいことは避け、感情抑圧のノウハウを駆使して、それを心の奥深くに封印してしまうことだ。最近の若者は言葉を知らないとか、本を読まないとか言われているが、葛藤から逃げ出す道を選ぶとしたら、言葉も本も必要ないのである。「面倒くさい」が口癖の若者が増えているのも、このあたりのことと関係しているのかもしれない。

 手軽な道をえらんだ代償は、その人自身に降りかかってくる。人は葛藤と向き合う中で、“自分”と出会うのだから。「自分は、本当は何がしたいのか」「どう生きたいのか」という気づきは、おぼろげなものではありながらも、葛藤に向きあった者へのご褒美だ。人はその“漠然とした未来への予感”を胸に、社会に向かって船出していくのだ。
 ところが、自分自身と向きあうことなしに思春期を過ごすとすれば、自分というものがはっきりつかめないままになる。それではいつまでたっても船出はできないし、たとえできたとしても、荒波に翻弄されるだけの旅になってしまうだろう。
 私の学生時代には、「積極的に就職をしたがらない学生が増えている」として、“モラトリアム人間”という言葉が流行した。しかし当時の学生には、「自分は何者なのか」「いったい、何がしたいのか、何をすべきなのか」という葛藤のなかで、船出できないでいる学生が多かったのではないだろうか。
 それに比べて、最近のニート、フリーター、引きこもりをめぐる状況を見ていると、「自分が何者であるのか」という答えを、外の世界から得ようとして行き詰まっているような感じを受ける。しかし最終的な答えは、本人自らの“内なる戦い”の中でこそ見つかるものなのだ。こういった若者に対する援助のあり方も、“内なる戦い”を支えるという視点を欠かしてはならないのでないだろうか。

 もうひとつ、青少年が加害者となった凄惨な事件では、「警察官に同行を求められると、加害者の少年は素直に応じた」とか、「取り調べにも淡々と答えていた」などと報道されることが多い。しかしそのような時は、反抗的だったり取り乱したりということが、昔は一般的だったのではなかろうか。手際よく準備を整え、冷静に犯行に着手し、その後は何食わぬ顔でふだん通りの生活を続けたというケースも増えているようだ。そこには良心の呵責による逡巡や葛藤はなかったのだろうか?
 そのような点について、「冷酷無比な性格」と断罪され、「特殊な人間による、特別な事件」で済まされることも多い。しかし私には、それらの理解しがたい態度が、現代の若者がもつ感情抑圧傾向の極端な表れであるように思えてしかたがない。彼らは、葛藤や不安をしまい込むことに長けていただけなのではないだろうか。淡々と見えるその心の奥には、本人でさえ気づいてない不安・怒り・戸惑いがあり、そしてさらにその奥には、「友だちに近づけない寂しさ」のようなものがあったのではないだろうか。それは、ただ、「『友だちになってよ』と伝えたい」ということだけだったのかもしれない。
 自分の本当の気持ちに本人が気づいていたなら、もっと別の形でそれを表現する余地があったのではあるまいか。

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(3)ホンネって、なんだろう?

 日々、懸命に育児に取り組んでいるのに、子どもがちっとも甘えてきてくれない。母親は、「私は嫌われているようだ」とすっかり自信を失い、相談に訪れた。話を聞いている間、その2歳児は背を向けたまま一人で黙々と遊んでいた。初めて来た相談室で、母親が知らない人と話をしている。しかも内容は、自分のことに関する悩みだ。平気な顔をしているが、心の中は不安と緊張でいっぱいに違いない。
 “心のフタ”を緩め、ホンネの気持ちを表現してもらおうと思い、子どもに働きかけてみることにした。「遊ぼうよ」と声をかけると、一瞬表情がこわばったが、誘いを無視して遊び続けようとする。そこで、軽く腕を引いてさらに誘うと、突然ギャ~ッと叫び声を上げ、部屋の外へ出て行こうとした。

 初対面の大人にいきなり腕をつかまれたのだから、怖くなって当然だ。それにしても異様なほどの叫び声をあげるのは、その前から溜め込んでいた不安がきっかけを与えられて爆発したからだ。母親によれば、ちょっとした理由で叫び声をあげることはふだんからあるという。部屋の外へ飛び出そうとするのも、感情抑圧傾向のある子どもによく見られる行動だ。怖い思いをした時は、母親のところへ飛んでいき、助けを求めて泣くのがふつうだろう。しかし、平気なふりをして我慢を続けたい子どもは、マイナス感情が吹き出やすい母親のもとを避けようとするのだ。
 そこで、「一人で無理に我慢しなくていいよ。こういう時には、ママのところで泣いていいんだよ」と声をかけ、母親に抱き止めてもらうことにした。母親に抱かれると、子どもは落ち着くどころか、ますます狂ったように泣き叫び、その手から逃れようとする。そして、「ママのバカ!」「ママなんか、きらいだ!」と怒鳴りはじめた。これもよくある行動パターンである。平気な表情を取り戻すためには、心のフタが緩んでしまう母親の抱っこを受け入れるわけにはいかないのだ。
 それでも母親は放さず抱き続け、「ママは大好きだよ!」と声をかけ続けていると、やがて子どもの体がふっと柔らかくなり、甘えるような泣き声に変わった。そして最後は、母親の腕に身をまかせてゆったりと落ち着いた。「こんなにぴったりと抱っこさせてくれたのは初めてです」と声をつまらせる母親。こんなやりとりを数回重ねるうちに、子どもは徐々に甘え上手になっていった。
 母親に対する悪口は、ホンネの気持ちではなく、我慢を通したいがゆえの“拒否の怒り”なのだ。重石のように心を塞いでいた怒りを出しつくしたことで、やっと、隠れていた「本当は、ママに甘えたい」というホンネの気持ちが顔を出したのだ。

 後日、似たような体験を母親自身がしたそうだ。夫が帰宅すると、その日の子育ての大変さをグチるのが日課だ。夫はしんぼう強くつきあってくれるが、グチればグチるほど腹が立ってきて、最後はいつも夫をなじってしまう。なんとも後味が悪く、ちっともすっきりしないでいたそうだ。
 ところがある晩、いつものようにグチを言い続けているうちに、なんだか泣けてきてしまい、「寂しいよ!」という言葉が口をついて出てきた。そして自分が発した思わぬ言葉に驚き、「そうだ、私は寂しかったのだ」とやっと自分の本心に気づいたそうだ。そのあと、涙が止まらなくなったが、泣けば泣くほど胸が温かくなり、肩の力が抜けていくという不思議な感覚を味わったと話してくれた。

 頑張らなくては!と心のドアに鍵をかけ、怒りの重石を載せたままでいると、ホンネの気持ちが自分でもわからなくなってきてしまう。それは、子どもも大人も同じだ。感情表現には、「自分の気持ちを相手に伝える」という“感情伝達”の役割とともに、「感情を表現していこうとする過程で、自分が抱えている深い気持ちを、自分で認識できるようになる」という“自己認識”の働きがあるのだ。
 “感情伝達”の技術を身につけていくことは、もちろん必要である。しかし、“自己認識”の働きの方が、子どもの心の成長という面では、むしろ重要な意味をもつのではないだろうか。
 程度の差はあれ、現代の子どもたち全般に感情抑圧傾向が広がってきているとすると、「自分のホンネがはっきりわからない」という子どもが増えてきているはずだ。

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(2)感情体験が果たす役割

 「聞き分けが悪く、叱ってもニヤニヤするだけで反省しない」という2歳の男の子。私が母親と話している最中に、母親のカバンを勝手に開け、中に入っていた携帯電話や手帳などを床にばらまき始めた。母親に注意されても、あいまいな笑顔のままいたずらを続けている。さらに強く叱ると、カバンを投げ飛ばして大暴れをはじめた。
 親に叱られた時、ふつう子どもは、ムッとしたり、べそをかいたり、ばつの悪そうな顔をしたりするものだ。しかし、そういったマイナス感情の表現を回避しようとする子どもは、とりあえず“笑顔の仮面”をかぶって、気持ちの動揺を悟られまいとするのだ。
 感情抑圧傾向をもつ子どもは、こわばった感じの無表情だったり、いつも不機嫌な顔だったりと表情の変化に乏しい場合もあるが、それだけだとは限らない。この例のように、「ふだんはニコニコしているが多いが、ため込んだストレスが臨界点に達すると、ひどいかんしゃくを起こす」というパターン、つまり「笑うか、怒るか」の両極端を往復するタイプの子どもも意外に多いのだ。

 少し抑圧がゆるむと、「泣く」という表現が加わる(抑圧傾向が強い子どもの場合、ほとんどは“怒り泣き”で、それは親に向けての「表現行為」というより、単なる「怒りの暴発」だ)。ふぇ~んと甘えるように泣いたり、しくしくと悲しそうに泣いたり、あるいは怖そうに泣いたりと、多様な感情表現を伴った泣きに変化してくるのだ。
 さらに自己表現が進むと、笑いについても、嬉しそうに笑う・恥ずかしそうに笑う・照れくさそうに笑うといった彩りが出てくる。「期待と不安の入りまじった表情」といったように、複数の感情が葛藤する表情も見られるようになる。甘え上手な子どもが可愛らしく感じられるのは、このように表情が豊かで、心の内が手に取るようにわかりやすいからである。
 TVなどで発展途上国の子どもを見ると、どの子にも実に生き生きとした表情をしていて驚くことがあるだろう。それは感情抑圧傾向が少なく、ホンネの感情をむきだしに表現していることによる可愛らしさなのだ。日本でも昔は、似たような素朴な雰囲気をもつ“ガキ”がたくさんいたはずだ。それに比べ、今どきの日本の子どもの表情はスマートだが、どことなく大人びていて、「子どもらしくない」と感じられることが多い。これは程度の差はあれ、子どもたち全体に感情抑圧傾向が進んできていることの表れなのだ。

 小さな子どもは、3歳前後のいわゆる反抗期の時期に、自己主張の力が強くなる。むき出しの感情を他者にぶつけることにより、自己表現の技術を高めていくのだ。もっとも、要求がすべて通るわけではない。相手から反撃を食らったり、嫌がられたりするといった失敗経験を通して、自己抑制の必要性も同時に学んでいくのだ。
 自己表現と自己抑制のバランスの取り方がうまくなってくると、少しだけわがままをしてみて、相手の出方をうかがい、「まだ大丈夫」とか「これ以上やると、怒りそうだ」と判断し、自己主張の程度を調節していけるようになる。もちろん、いつも相手の気持ちに合わせているわけにはいかず、譲歩できない切実な要求が生じることもあるだろう。そういう場合も含めて、「相手の気持ちを感じ取りながら、自己主張のバランスを考えていく」という経験を積むなかで子どもは、人とのコミュニケーション技術を身につけていくのだ。
 それは、否定的な意味での「人の顔色をうかがう」態度とは違う。その場の空気を読んだり、相手とのほどよい距離の取り方を考えていったりすることは、人間関係の基本なのだ。
 ところが、感情抑圧傾向がある子どもは、自己表現をできるだけ出さないように頑張り続け、臨界点に達すると爆発してしまうということを繰り返す。つまり、ホンネの感情が飛び出すか否かは、「我慢ができるかどうか」によるのであって、「相手がどんな気持ちでいるのか」ということとは無関係なのだ。相手の気持ちを感じ取る必要がないとすると、当然、そういった面での力が身につきにくくなってしまう。
 その影響は、中高校生の友人関係に垣間見ることができるだろう。

 今どきの中高校生を見ていると、一見スマートな人間関係のようだが、自分のホンネをしまい込み、あたりさわりのない会話に終始しているように思えてしかたがない。「喜怒哀楽の表現を繰り出し、失敗を重ねながら仲間との関係を作っていく」というやり方は、今どきの子どもたちからすると、リスクが大きすぎると感じられるのだろう。
 ホンネを表現しようとない友だちの気持ちは、読み取りにくい。たとえホンネが垣間見られたとしても、気持ちを感じ取る力自体が弱い。このような状況で、友人関係を築いていくのはとても大変なことだ。それこそ、友だちの顔色をうかがいながら、疑心暗鬼のまま行動していくしかない。「ケンカはしても、心の底では通じ合っている」と確信できた、昔の子どもの仲間関係とは大きく違うのだ。人間関係に疲れ切ってしまう子どもが増えているのも、当然なのではないだろうか。

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(1)隠された感情抑圧の結末

 子どもの行動・性格面に関するさまざまな問題の根っこには、感情抑圧のメカニズムがある。このことは、すでに出版されている私の著書の中でたびたび触れてきたし、相談室を訪れる親たちにも説明してきた。子どもの心のからくりを知った親たちは、「不可解な行動の原因が、やっと理解できた」と胸をなでおろす。しかし一方で、「感情抑圧傾向をもったまま成長していくと、この先、どんな人間になってしまうのだろう」と不安を漏らす人も少なくない。
 しかしその点について、私の見方は楽観的だ。たしかに幼児や小学校低学年など、比較的早い段階で破綻をきたし、なんらかの問題が生じるのは、特に感情抑圧の傾向が強いタイプの子どもたちだ。しかし、そのぶん早めに対応し、マイナス感情の発散や自己表現を促していけば、予後は悪くない。「親が気づいてあげる」ということのもつ影響力はとても大きく、それだけで、子どもの心に大きな変化が起きることも珍しくないのだ。

 問題はむしろ、目立った問題がないまま大きくなっていった子どもたちである。周囲の大人が気づかないままマイナス感情をため込み続け、中学生や高校生になってやっと臨界点を迎えた場合、事態は深刻だ。日々、さまざまな事件の報道に接していると、背後に感情抑圧のメカニズムの存在を感じることがあまりにも多い。
 たとえば対人緊張が強い子どもは、親に対してさえリラックスして甘えることができにくい面がある。それが、甘え上手になってくると、人に対する緊張も少し緩んでくる。さらに変化が進むと、今度は、親に対してダダをこねる時期がくる。これはいわば自己主張の練習であり、その結果、友だちとも緊張しないでやりとりできるだけの「心の力」がついていくのだ。相談を受けたケースの多くが、同じような経過をたどる。
 このような変化が、中高校生になってから一気に起きた場合、「不登校の末、家で暴れ始める」ということになるのだろう。不登校やひきこもりは、「親のそばにいて、甘えたい」という欲求の表れだ。しかし、進学に向けて学校の授業がどんどん進んでいく状況では、ゆったりと甘えさせるという選択肢は受け入れがたい。家庭内暴力は、自己主張のためのダダこねと本質は同じだ。しかし、小さい子どものダダこねやかんしゃくでさえ、親は対応に苦慮する。それが中高校生ともなると、簡単には受け止めきれなくなる。まして、長年にわたって溜め込んだ怒りが一気に爆発した場合は、想像を超えるすさまじさになるだろう。

 あるいはまた、「すぐに親を叩いたり、噛みついたりする」という子どもの相談を受けることがある。叱るとよけいに叩いてきたり、ひどいかんしゃくを起こして物や友だちに当たる。かといって、優しく諭すだけでは収まらず、対応に困って相談にみえるのだ。
 このような行動は、実は、ダダこね下手の子どもによく見られるものである。ダダこね上手の子どもの場合は、「ママのバカ!」と叫んで大声で泣いたり、地面にひっくり返って暴れたりと、ストレートに感情を表現することができる。しかし、叩く・噛みつくという行動は、屈折してしまった感情表現なのである。このような子どもへの対応は、叩いてくる手をつかんで制止してやることである。すると当然、子どもは手を振り切ろうとして暴れ出す。しかし、それでよいのだ。全身で暴れるという行為は、気持ちが発散しやすい上手なダダのこね方なのだから。乱暴をしようとする手や体を保持し続けると、子どもは全身で暴れるが、やがて気持ちを出し切り、すとんと落ち着く。このような対応を続けていると、子どもはみるみるダダこね上手になっていくのだ。
 受容的な態度で接しようとする母親が、「叩くまま・噛みつくままにさせておいたところ、子どもの行動がどんどんエスカレートしてきた」と相談に訪れることがある。どうして、エスカレートしていくのか? それは、叩く・噛みつくという行動が“抑圧のかかった感情表現”であるため、いくら叩かせてもらっても、子どもはちっともすっきりしないからである。それに子ども自身、「親を叩く」という行為がいけないことだと、本当はよく分かっており、つい叩いてしまう自分に内心いらだっているのだ。そんな子どもが、屈折したダダこね表現を止めてもらい、全身で暴れるというストレートな感情表現に導いてもらうと、「ああ、これこそ、自分がやりたかった行動だ」と実感し、かえって親に対する信頼感は増してくるのだ。

 しかし同じようなことが、中学生になってから起きるとしたら、どういうことになるだろうか。それが現実化した悲惨な事件が、1996年11月に、東京都文京区で起きた。ひとりの父親が、「金属バットで息子を殴り殺した」と警察に自首してきたのだ。当時中学3年生だった長男は断続的な不登校状態にあり、家族に対して殴る蹴るなどの暴力をふるい続けていた。身の危険を感じた母親と姉は家を出たが、父親だけは家に残り、長男の立ち直りを模索し続ける。カウンセラーの助言のもと、父親がとった方針は“完全受容”だった。いくら暴力を振るわれても抵抗することなく、なされるがままに受け止める。そんな生活に2年半にわたって耐え続けたあげく、ついに我慢の限界を超え犯行におよんだのだ。
 何とか子どもを立ち直らせようと、歯を食いしばって耐え続けたであろう父親の心境を思うと、とても責める気持ちにはなれない。しかし子どもは、父親に暴力を止めてほしかったのだと思う。甘んじて暴力を受け続ける父親に対していらだち、それ以上に、暴力を振るう自分自身に対していらだっていたはずだ。殴り続ける子どもの苦しみと、殴られ続ける父親の苦しみ。“感情抑圧のメカニズム”という視点さえあれば、すれ違っていた2つの苦しみが出会い、和解へと進むことができたのではあるまいか。そう考えると、残念でならない。

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