カテゴリー「■第5章 「コントロール神話」の落とし穴」の記事

(6)依存症に陥る人々

 人が生き生きと生きていくためには、ほっと心がなごみ、安心感に満たしてくれるものとの繋がりが不可欠だ。古き良き時代には、それがムラ共同体であったり、大自然であったりしたのだろう。そういった“心のエネルギー源”を失った現代人は、自分らしさを求めつつ、孤独感の中であえいでいる。自立への指向が強い人ほど、心の奥には、依存への強いあこがれがあるのだ。
 “その他大勢”の集団に埋没していくことなしに、この依存への無意識の願望をかなえる手段のひとつが、アルコール依存症、薬物依存症、摂食障害、人間関係への依存(共依存)等の「依存症」なのではないだろうか。形は違うが、狂信的な宗教集団への入信も、個性的な指導者への依存という側面が大きいのだろう。一般大衆には理解しがたい少数派集団であるという点から、集団に属しながらも「自分らしさ」を失っていないという自負をもつことが可能なのだろう。
 「自分らしさを失わず、よりよく生きたい」という真摯な気持ちをもった人々ほど、こういった依存に陥りやすいと言えよう。そういった真剣な思いを支えてくれる“心のエネルギー源”は、依存の他にはないのだろうか? その大きなヒントを与えてくれる、ある摂食障害の自助グループがある。

 NABA(日本アノレキシア・ブリミア協会)は、拒食や過食など、摂食障害に苦しむ人たちの自助グループである(HP:http://www8.plala.or.jp/NABA/)。NBNA共同代表の鶴田桃江さんの体験談は興味深い。
 鶴田さんが過食にはまったのは、高校生の時が始まりだったという。表面的には人と仲良くする振りはしていたが、心の中ではいつも孤独感にさいなまれていた。大学入学後には、ダイエットがきっかけとなって拒食と過食の往復となり、入退院を繰り返すようになった。そんな鶴田さんの転機となったのは、27歳の時のNABAとの出会いだ。同じ悩みをもつ仲間同士で心を開き合ううちに、だんだん気持ちが楽になってきたという。
 NABAの集まりに通うようになってから、同じ摂食障害者とはいえ、様々な人たちがいることに気づくようになった。学生、主婦、会社員…。なかには、社会の一線級で活躍しているような人もいて、多様な人とふれあうことができた。そして、「自分は自分でいいのだ」という確信が生まれ、12年間続いた摂食障害が止まったという。

 このような自助グループは、他にも、幼児虐待のトラウマに苦しむ人たちのグループなど、似たようなスタイルで効果を上げている。同じ苦しさを抱える者どうしが集まり、自らの体験を話すのだ。話したくない者は、聞くだけの参加でもよい。ただ聞く時は、なにもコメントを挟まず、ただただ耳を傾けるのがルールだ。批判されない、丸ごとを受け止めてもらえるという安心感の中で、苦しい体験を語りはじめると、涙が止まらなくなる人もいる。しかし話し終えた後は、不思議な安堵感に包まれるのだという。
 マイナス感情を抱え込んだままでいると、他者への怒りとなって暴発したり、自分自身への怒りとなって無力感が生まれたりする。しかし、コントロールすることなく、ありのままに表現することができると、感情自体がもつ回復へのプロセスが進みはじめるのだ。そのためには、ありのままを受け止めてもらえるという安心感が必要だ。

 ただこういった試みは、自助グループ自体が依存の対象となってしまう危険性もある。「自助グループこそが、自分の生命線だ」「自助グループなしには、自分は生きていくことができない」という思い込みが強くなりすぎると、グループの存続だけが唯一の判断基準となり、主体的な生き方を捨て去ることにもなりかねない。
 その点について、鶴田さんの話は明快だ。鶴田さんは、多様な人が集い、お互いが違いを認め合う会の雰囲気の中で、「自分らしく生きていいのだ」と気づき、孤独の“孤”から、個性の“個”へと自分の気持ちが変化していったという。自分らしさを捨てて人と繋がるのではなく、人と繋がることで自分らしさに目覚めていったのだ。
 自分の価値を人に認めてもらうことによって、生きる力が湧いてきたというよりも、自分の価値を自分自身が認めることによって、誇りを持って生きていく自信が湧いてきたのだ。ここには、現代人が求めるべき「心のよりどころ」の在りかが、はっきりと示されているのではないだろうか。

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(5)境界線としての怒り

 ある文化人類学者は、近代化を拒み、伝統的な文化を固持し続けている部族を観察し、彼らが怒ることを知らず、「怒り」を意味する言葉も持たないことに驚いたという。ただ、怒りに相当する感情が表れるのは、他の共同体から、その文化の伝統を侵された時だけだ。そのような時には、戦いが起こる。それは、いわば“共同体としての怒り”だ。
 ムラ共同体の成員全員が同じ価値観をもち、一心同体のような暮らしをしている時、成員同士には自他の区別意識はほとんど生じない。自他の区別はムラの内・外であり、アイデンティティーを守る“境界線”は、ムラ共同体が用意してくれていた。
 このように怒りの感情には、自他を区別する働きがある。周期的に起きる戦争は、怒りの発散の場を提供すると共に、同方向の怒りを共有することにより、共同体の成員同士の絆を深める役割も果たした。戦前の日本の社会においても、同じような傾向があったのではないだろうか。そこには、「おらがムラ」ではなく、「おらが国」という境界線意識が存在していた。

 戦後の日本における代表的な怒りは、学生運動・反戦運動・市民運動といった“民主化闘争”に見ることができる。そこでの境界線は、「反体制側」と「体制側」の間に引かれた。大企業や政府与党といった“敵”を前に、庶民は団結を誓い、連帯感を高めていったのだ。体制側に向けての「怒りの発散」が封じ込められた時、内ゲバという形での怒りの感情の発散に走らざるを得なかったことは、ある意味、当然の帰結だったかもしれない。しかし大多数の人々は、個々人の内に怒りを内在化することによって、事態を収拾させていった。
 「同じ国民」「同じ庶民」という幻想が打ち砕かれていった結果、境界線は、自己と他者の間に引かれることになる。外圧的な縛りや帰属意識から解き放たれ、「自分らしさ」を指向する現代的な生き方は、必然的に個人主義を選択する。“境界線”は自分と隣人との間に生まれ、境界線を侵し安全を脅かす者に対しては、“個人としての怒り”を用意していく必要があるのだ。
 集団的な怒りの発散の場は期待できなくなり、その一方で、怒りの共有による他者との一体感や親密な関係が失われ、孤立感にさいなまれる。そして抑圧された怒りは、慢性的なイライラとなって、人々を苦しめるのだ。

 戦争が起これば、慢性的なイライラは解消に向かうのかもしれない。狂信的な集団に所属すれば、個人的な怒りは静まるのかもしれない。しかし、せっかく手に入れた「自由」を手放すことによってしか、心の平安は取り戻せないのだろうか。
 自分らしさを捨て、“その他大勢”の価値観を甘んじて受け入れることによって、安心感を得ていくのか。安心感への願望を断ち、孤立感にさいなまれながら、自分らしさを追求していくのか。この2つの選択肢しか、現代人には残されていないのであろうか。

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(4)じゃれあいが許されない社会

 ある中小企業に勤める人から、古き良き時代の忘年会でのエピソードを聞いたことがある。
 若手社員が酔った勢いで、禿頭の社長に向かって、「ハゲ! ハゲ!」とからみはじめた。まわりの者は止めようとしたが、当の社長は、平然とした顔で酒を飲み続けている。するとその社員は、今度は、マヨネーズのチューブを持ち出し、社長のつるつる頭に塗り始めたのだ。それでも、平然と杯を重ねている社長。そして、頭の塗られたマヨネーズを、社員がペロペロ舐めはじめたところで、さすがにまわりの者が力ずくでやめさせたという。しかしその後も、社長はニヤニヤしながら、何事もなかったように飲み続け、おとがめは一切なかったそうだ。
 なかなか肝っ玉のすわったすごい社長だったようだ。しかし、ただマヨネーズを塗っただけではただの嫌がらせだが、それを舐める行為はいわば親愛の証である。そのことを社長はちゃんと感じ取っていたのだろう。無礼な行動だが、それは子どもが親にじゃれつくようなものだ。どこか腹の奥深くで人間同士が繋がっていた時代は、多少羽目をはずしたところで、すぐに人間関係が破綻してしまうことはなかったのだ。
 しかしこのことは、もともと厳然としたポジションが決まっていて、最後に収まるべき位置が決まっていたからこそのことだったのではないだろうか。

 地縁・血縁による上下関係が厳然と存在していた時代には、一方で、無礼講としての悪ふざけが大目に見られた。非日常的な場面で羽目を外したとしても、それは、日常的なワクを揺るがすものではなかったからだ。小競り合いやケンカも、理性によってではなく、社会的なワクに裏打ちされた「場のもつ限界」によって収束していった。
 ところが、古い社会の因習や差別構造を捨て去り、自由と平等を目指してボーダレス化が進んだ現代社会においては、「不文律としての“場のもつ限界”」という安全弁が機能しなくなる。卒業式を終えた後の“教師へのお礼参り”や、成人式の後の乱痴気騒ぎは昔からあった。しかし、卒業式や成人式そのものを台無しにするような悪ふざけは、ボーダレス社会のひとつの反映だろう。
 自由を許さない社会的なワクは、じゃれあいの暴走を未然に食い止める働きもしていた。しかし社会的なワクが緩み、自由が謳歌できるようになった現代では、自前の理性を働かせて、自ら感情の暴走を食い止める必要があるのだ。

 「同年齢の友だちとの関係がうまくいかない」という子どもも、大人との関係や、年上や年下の子どもとの関係は安定していることが多い。上下関係がはっきりとしている人関係は、距離のとり方が容易なのだ。
 母親たちからは、「ママ友だちとの、距離のとり方が難しい」という声を聞く。それぞれの家の格式や上下関係が明らかだった時代においては、それに応じた固定的な距離のとり方でがはっきりとしていた。しかし自由で流動的な人間関係では、人との距離のとり方が難しく、個々人の試行錯誤が必要となる。
 一番無難なのは、ホンネの気持ちをしまい込んだまま接するということだろう。しかしそうなると、お互いのホンネがますます見えなくなり、仲間はずれにならないように、相手の顔色をうかがうようになってしまうことになる。じゃれあいを許容しあうな“ざっくばらんな関係”を望むのは、危険なカケなのだ。

 このような「自由のもつ負の側面」に閉塞感を覚え、狂信的な集団に身を投じる人々がいる。そういった人たちは、その集団独自のさまざまな制約に縛られ、ワクを与えられることにより、やっと安心感が持てるようになるのだ。
 かつてのナチスドイツがそうだったように、自由な社会がもつ「自己責任・自己決断の大変さ」は、固定的な行動規則へのあこがれを生む。現代の日本の社会がもつ閉塞感を解消する道も、「自由からの逃走」しかないのだろうか。

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(3)怒りを楽しむ

 昔、私の家の近所に、仲の良い八百屋の老夫婦がいた。ご主人は、「美人の奥さんには、はい、これ、おまけ」などと、お客さんに愛想を振りまく。客が、「あら、そんなこと言っていると、奥さんに叱られるわよ」と切り返しても、「なあに、女房は、女の中には入ってないから、平気、平気!」とすました顔だ。すると、店の奥にいた奥さんから、「この人だって、男の中には入っていないから、平気、平気!」とすかさず逆襲され、頭をかくご主人。客も夫婦も大笑いだ。「けんかするほど、仲が良い」を地でいくようなご夫婦だった。
 大人どうしも、ちょっかいを出し合ったり、軽口をたたき合ったりという“ざっくばらんな人間関係”が結べると、慢性的なイライラを抱えることが少なくなる。それは、軽い怒りの感情を、“じゃれあい”というやり方で楽しみながら発散できるからだ。

 ある時、「ちょっと叱られただけで、自分の頭を際限なく叩きはじめる」という3歳児の相談を受けた。こういったタイプの子どもは、じゃれあい遊びに誘っても乗ってきてくれないことが多い。物を壊すいたずらが目に余ったり、友だちにすぐに手を出してしまうような子どもも、同じような傾向がある。
 ふつう子どもは、こちらがちょっかいを出すと、少し迷惑そうな、しかし嬉しそうな独特の表情を見せる。さらにちょっかいを出し続けると、子どもの方からもちょっかいを出してくるようになり、ちょっかいの応酬になる。そしてだんだん子どもの顔は輝きはじめ、あっという間に仲良くなるのだ。
 しかし、感情抑圧傾向のある子どもは、こちらがちょっかいを出しても、身を固くして避けようとすることが多い。さらにちょっかいを出し続けると、急にかんしゃくを起こし、叩いたり噛みついたりしてくる。0%の怒りか、100%の怒りかの両極端で、ほどほどの軽い怒りをじゃれあいという形で楽しむことができないのだ。

 こういった子どもたちに共通なのは、怒りが「不適切な方向性」をもっているということだ。怒りの表現を無理に押さえ込もうとすると、自分自身や、物や、友だちといった、本来向かうべき方向とは違うところに向かって暴発してしまうのだ。「本来向かうべき方向」とは、言うまでもなく親である。
 子どもは、親に対して怒りをぶつける(ダダをこねる)中で、自己表現と自己抑制のバランスを体得していく。さらに、親と適度な距離が置けることにより、独自な存在である“自分”というものに自信をもつようになる。そうなると、ほどほどのじゃれあい遊びを楽しめるようになるのだ。

 ただ核家族化が進み、“密室育児”が主流となったこの国では、ダダこね期の子どもの相手をする母親の苦労は並大抵ではない。2世代同居、3世代同居が当たり前だった時代は、子どものダダこねの相手をする大人は、家の中にたくさんいた。しかも、自然環境に恵まれ、発散的な外遊びが主流だった時代には、そういった遊びが子どものほどほどの怒りの発散の場となっていた。それを現代では、母親一人が受け止めなくてはならないのだから、大変なことである。
 さらに、大人社会全体の感情抑圧傾向が、それに拍車をかける。ざっくばらんな人間関係が主流だった時代には、大人同士もじゃれあいが得意だった。社会のいたる場所で、じゃれあいの腕を磨くチャンスがあったのだ。時には、大人同士の行き過ぎたじゃれあいがケンカに発展してしまうこともあっただろう。しかしそれも含めて、心おきなく感情表現をしていく中で、具体的な経験を通して、適度な感情抑制や人との距離の置き方を学んでいくことができたのだ。大人全体がダダこね上手だった時代には、子どものダダこねの本質を「じゃれあい遊び」と見抜き、深刻になることなく適当にあしらうことができる親も多かったことだろう。
 しかし、スマートな人間関係が主流となった現代社会においては、「経験や失敗を通して、自分自身の感情の扱い方を学んでいく」ということが許容されないような雰囲気に充ち満ちている。自分の感情との付き合い方を学ぶ前に、抑え込み、笑顔の仮面をつける生き方が主流となってしまっているのだ。このような時代に育った母親が、子どものダダこねを受け止めることは容易ではない。
 飼い慣らされることなく、幽閉されたままの怒りの影響は、幼児に見られる「自分自身を傷つける」「物を壊す」「友だちに当たる」といった行動が、青少年や大人の場合は何に相当するのかを考えてみると、容易に想像がつくはずだ。

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(2)怒りには意味がある

 小学校5年生の子どもが、母親にこう頼んだ。「学校で使うノートを買いたいから、駅前のスーパーまで一緒に行ってよ」。夕食の準備で忙しかった母親は、「もう5年生でしょ。それぐらい、一人で行きなさいよ」と返事をしたが、そのとたん、そう言ったことを後悔した。この子には対人緊張傾向があり、特にこの3ヶ月ほどは情緒が不安定で、臭いに対して過敏になっていたからだ。
 ストレスを溜め込むと、臭いや音に過敏になることがある。「学校はトイレが臭いから、行きたくない」と言ったり、「教室は、みんなが騒がしいから嫌だ」と訴えたりと、ふつうなら気にならない程度の刺激にも、過敏に反応してしまうのだ。私たちも、風邪で熱があったり、体調が悪かったりすると、ふだんなら何でもない音や光がうっとおしく感じられることがある。それと同じで、本人にとっては切実な問題なのである。
 この子どもの場合は、スーパーやレストランなどに入ると、「臭くて、吐き気がする」と訴えていた。ところが母親は忙しさにかまけて、ついそのことを忘れてしまっていたのである。「ごめん、ごめん」と母親はすぐに謝ったが、「もう、いい!」と子どもは腹を立て、家を飛び出していった。母親は心配したが、やがて帰ってきた子どもの手には、しっかりとノートが握られていたという。腹を立てながら、自分一人で買ってくることができたのだ。
 母親は「ケガの功名でしたが…」と苦笑いしながら、このエピソードを教えてくれた。

 ここには、怒りのもつ重要な意味が示されている。怒りの感情は、「障害を跳ね返して行動するためのエネルギー」に転化できるのだ。
 逆に、自分の望む方向に“行動のエネルギー”が発揮されていない状態が続くと、やがてそのエネルギーが、怒りの感情へと変化してしまうことがある。慢性的なイライラに悩まされている人は、一方である種の無力感を抱えていることが多いが、こういう人はむしろ、自己実現への大きなエネルギーを潜在的にもっているのではないだろうか。

 別の子どもについて、「原因不明のかんしゃくを頻繁に起こす」という相談を受けた。友だちの輪の中に、なかなか入っていけないことも心配だという。カウンセリングを進めていくうちに、母親に対してのダダこねがひどくなってきた。しかしやがて、原因不明のかんしゃくは収まり、友だちとも仲良く遊ぶことができるようになった。このような経過をたどる子どもは多いが、ここにも怒りのもつ意味が隠されている。
 「原因不明のかんしゃく」は、怒りの表現が抑圧された状態である。原因不明なのは、「本当は、何に対して腹を立てているのか」という表現を避けた、単なる“感情爆発”の段階にとどまっているからである。それが、内実を伴った“表現”に高まっていくと、母親に対する指向性をもった“ダダこね”になる。ダダこねは、怒りの装いをまとってはいるが、一種の自己表現なのだ。
 シュタイナー教育で知られている思想家のルドルフ・シュタイナーは、「人間が成長していくためには、“共感”と“反感”の2つをバランスよく学んでいく必要がある」という趣旨のことを言っている。このことは、子どもの成長を援助しているとうなずけることが多い。子どもが母親との一体感(共感)に浸り続けたとしたら、いつまでたっても“自分”というものが作り出せない。親とは違う独自の存在である“自分”を創造していくためには、親から離れ、一定の距離を置く必要がある(反感)。この作業が、親に対する反逆、すなわち“ダダこね”なのだ。
 ダダこねを通して子どもは、自己主張のしかたを学んでいく。それと同時に、度を過ぎた自己主張を親にとがめられる中で、自己抑制をも学んでいくのだ。

 小さな子ども同士の関係というのは、実にシビアなものである。初対面なのに、急に「あっちへ行け!」と言われたり、おもちゃを奪われたり、抱きつかれたりと遠慮がない。しかし、いざというときに「No!」と拒否することができると、身の安全を確保することができる。伝家の宝刀である「No!」は、母親に対するダダこねの中で身につけていくものだ。そして、こういった自己主張の力をもたないうちは、怖くて友だちに近づけないのも、無理はないのである。
 遠慮がないぶん、子ども同士は仲良くなるのも早い。ちょっかいの出し合いや、小競り合いを繰り返しながらも、あっという間に親密さが増していく。こういった「じゃれあい」は、いわば、軽い怒りの発散と言える。怒りの感情は、「人間関係の潤滑油」ともなりうるのだ。

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(1)感情のコントロールが逆効果になる理由

 「子どもの前では、なるべく笑顔でいたいと思うのですが…」と言う母親。しかし、いつも叱りすぎて後悔するのだという。きっかけは、いつも、ほんの些細なことだ。
 夕食の準備が整ったので、おもちゃを片づけるように子どもに声をかける。「わかった」と言いながらも遊び続ける子どもに、何度か声をかけるが、いっこうにやめる気配がない。イライラが最高潮に達し、それでも、なんとか気持ちを抑えて、「もう、いい加減にしなさい」と注意をする。しかし、「やだ、もっと遊びたい」という子どもの言葉に、プツンと我慢の糸が切れるのだ。「ママなんか嫌い!」という反抗的な態度に、さらに怒りに火がつき、最後は叩いてしまうのだという。その後は、暗い顔の子どもとの気まずい食事。いつも、こんなふうになってしまうのだそうだ。
 「我慢の末の、大爆発」というパターンは、第1章で紹介した「急にキレてしまう子ども」の場合とよく似ている。感情を無理にコントロールしようとすると、かえって怒りの暴走になってしまうのだ。

 なかなかおもちゃを片づけない子どもに、「ほら、さっさとやんな!」と一喝しながら、勝手におもちゃを箱にしまってしまう母親。「ママのバカ!」と叫ぶ子どもを相手にせず、さっさと食べ始める母親の態度に、子どもは仕方なく、ベソをかきながら食卓につく。「うーん、今日のカレーは大成功だな。どう? おいしいでしょ?」とのんきな母親に、いつしか子どもの機嫌も直り…。
 こういうタイプの人は、怒りの大爆発になりにくい。自己主張を小出しにできれば、そこそこの怒りにとどまることができる。そして母親が子どもの怒りに巻き込まれないぶん、子どもが落ち着くのも早いのだ。
 おおらかな感情表現ができた時代には、こんな感じの親子関係が多かったのではないだろうか。

 親として、なるべく笑顔で子どもに接したいというのは、もっともな願いだろう。しかし、無理に怒りを我慢し続けると、かえってコントロール不能に陥ってしまうのには理由がある。
 怒りの感情が湧くのは、人間としてある程度はしかたがないことだ。ところが怒りの感情が生じたことを必要以上に問題視し、それを無理に押さえ込もうとすると、新たな2つの“怒り”が生まれてくる。ひとつは、「怒りを抱えてしまった自分に対する“怒り”」、もうひとつは、「笑顔への努力を台無しにした相手に対する“怒り”」である。
 仏陀の瞑想法に詳しいラリー・ローゼンバーグは、「感情が自らの花を咲かせることについて干渉しなければ、それはそれ自身の命にしたがって去っていきます」(『呼吸による癒し』春秋社)と述べている。たとえ怒りが湧いてきたとしても、それを抑え込もうとジタバタしなければ、やがてそれは自然に消えていくのだ。しつこいのは、むしろあとから生まれた怒りの方である。こういった怒りのもつ性質を、古き良き時代の人は、生活経験の中から自然に学び取っていたのではないだろうか。
 現代の日本にイライラを抱えた人が多いのは、感情を無理にコントロールしようとして、かえって感情そのものがもつ自然なプロセスを阻害してしまっていることに原因があるのではないだろうか。

 ある母親が、「自分の怒りが抑えられない」ということで相談に訪れた。育児雑誌の特集で「叱らない子育てのコツ」を読むなど努力してみるのだが、うまくいかないのだという。
 突発的な小さな怒りは、なんらかの工夫でまぎらわすこともできるだろう。しかし、怒りに対して罪悪感が強く、冷静でなくてはならないという気持ちが強いタイプの人は、慢性的なイライラを溜め込んでいることが多い。そのような場合は、表面的なまぎらわしだけではうまくいかないのだ。
 慢性的な怒りには、しかるべき“根っこ”が存在していることが多い。その“根っこ”が明らかになってくると、自然に「怒りがそれほど湧いてこない」という状態になるのだ。この母親の場合も、何度かカウンセリングに通ってもらい、“根っこ”に目を向けていくうちに、自分自身の怒りに振りまわされることがなくなってきた。
 怒りの感情を“悪”と見なして、押さえ込もうとすることは、「理性の暴走」とも言える。怒りには、気づくべき“大切な意味”が隠されていることが多いのだ。

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